2008-10-01から1ヶ月間の記事一覧

12《加藤登紀子》後編

この年はフォークが次々とヒットした年で、彼女もシンガー・ソング・ライターの草分けの一人になった。翌年、また同じ場所で飲んでいて、彼女の新曲を聞いた。「帰りたい帰れない」という、都会に出て来た若者の望郷歌である。1番から3番まで、最後のフレ…

11《加藤登紀子》前編

「6羽のかもめ」の主題歌(「かもめ挽歌」)は加藤登紀子に頼んだ。千駄ヶ谷の自宅に押しかけ、作詞・作曲・歌唱のすべてを頼んだのである。番組が当たらなかったので、テレビの力でヒットすることもなかったが、それでも彼女は自分のLPの中に入れて、コ…

10《「6羽のかもめ」を後にして》

「信兵衛」が終わった昭和49年10月、土曜日の夜の10時から「6羽のかもめ」というスタジオドラマが始まった。原案・脚本は「信兵衛」の最初の2本を書いた倉本聰。かつて三百人の団員を擁した新劇の劇団「かもめ座」は、分裂を繰り返して今や6人。座長の淡…

9《高橋英樹に始まって》その3

先生とは番組が終わっても色々お付き合いが続いた。 あるところで飲んだとき、先生がボソリとまた一言。「今、新聞の連載を頼まれて何を書こうかと考えてるんだ」。「先生、そろそろ捕物帳をお書きになったらどうですか。柴錬捕物帳と銘打って型破りなのを・…

8《高橋英樹に始まって》その2

半年の休みはすぐ終わる。次の企画に困った。適当な原作物がみつからない。ふと思いついたのが山本周五郎の「赤ひげ診療譚」である。あの赤ひげ先生が若い素浪人だったらどうだろう。小藩を脱藩して長崎で蘭学を学び、小石川の養生所ではなく、江戸の裏長屋…

7《高橋英樹に始まって》その1

高橋英樹はこのとき26歳。非常にクレバーな好青年だった。しかも大変堅実な考えの持ち主だった。日活の男性スターの多くが裕次郎を慕って石原プロに籍を置いたのに対し、彼は淡島千景の事務所に入った。その関係で、歌舞伎以外の商業演劇で淡島を相手役にす…

6《京塚昌子》

話を元に戻そう。京塚さんとのお付き合いは70年から始まった。京塚昌子40歳、私36歳。話はザックバランで、思ったことを腹の中に仕舞っておける人ではなく、お酒は飲めるし、年こそ少し上だが「可愛い女」の一面をドラマに出せればと思ったこともあった。と…

5《美空ひばりとお母さん》後編

年開けて1966年、ドラマの企画は林与一と2人主役の「花と剣」というオリジナルになり、京都時代劇の重鎮たちが本を書き、忙しい彼女のスケジュールを縫って、5月から録画を始め、10月から放送された。無事お役御免になって、寂しい反面、ほっとした記憶が…

4《美空ひばりとお母さん》前編

それは「お嬢」こと美空ひばりだった。52年の短い生涯でレコードだけでも通算4千万枚以上を売り上げた人である。デビュー以来映画、演劇、レコード、ラジオ。何をやってもヒットを連発してきた大スターなので、テレビで無理する必要も無く、新曲を出す時に…

3《スターを担当する》

先に触れたように、フジ・博報堂連合がTBS・電通連合を相手に「渥美清争奪戦」をやったのが1968年だった。カラー時代を迎えた70年前後から、各局は視聴率の取れるタレントを囲い込もうとしていた。そのために各社それぞれに編成部や制作部などのセクショ…

2《「スター千一夜」を1年担当》

入社以来12年間、編成で番組企画を担当したと書いて来たが、実はその間1年だけ、制作部に異動し、「スター千一夜」の企画デスクのような仕事をやった。この異動には訳があった。「スター千一夜」は開局以来、夜の9時台に月曜から金曜まで毎晩15分編成され…

1《カラーテレビ時代の到来》

フジテレビに入社以来、編成部で番組の企画を担当した12年間の最後の数年は、漸くカラー時代を迎えていた。カラーの技術は白黒テレビの放送開始時期にはほぼ出来上がっていたし、カラーの本放送も、実は昭和35年9月に始まっていたのだが、受像機があまりに…

10《産婆はつらいよ》

シリーズが終わってしばらくして、松竹から映画化の話が来た。まだ映画会社の方がテレビ局より偉かった時代、テレビ番組が映画になるのはフジの宣伝になると思い、「どうぞ、どうぞ」と無条件でOKしたのが私の大失敗だった。「企画フジテレビ」をタイトル…

9《幾つかの番組たち》〜『男はつらいよ』編〜

その点(前項の『若者たち』と異なり)、ギネスブックに載るほど長いシリーズになったため、『男はつらいよ』は誰もが知っている。でもこの人気映画がフジのテレビ番組から始まったことを知る人は少なくなった。NHK『夢であいましょう』など、テレビの初…

8《幾つかの番組たち》〜『若者たち』編〜

編成部の企画担当は何でも屋なので、関わったドラマも多い。白黒時代で『三匹の侍』以外に記憶に残るものは『若者たち』と『男はつらいよ』だろうか。 2005年の春、北海道新聞のS編集委員の訪問を受けた。『若者たち』のころの話を聞きたいという。 「道新…

7《幾つかの番組たち》〜『ママとあそぼう! ピンポンパン』編〜

幼児番組『ママとあそぼう! ピンポンパン』も忘れ難い。この番組は『ゲゲゲ』の1年ちょっと前の昭和41(1966)年10月にモノクロでスタートした。当時、朝の8時台には『おはなはん』を始めとするNHKの朝ドラが視聴率を独占。フジの営業もこの時間は売り…

6《幾つかの番組たち》〜『ゲゲゲの鬼太郎』編〜

昭和42年某日、東映の本編(劇場映画のこと)の営業から異動したばかりの渡辺亮徳テレビ課長(後に東映副社長)が水木しげる原作『墓場の鬼太郎』という企画を持って来た。マンガ好きでお化け好きの私は、とっくにこの作品を愛読しており、これをアニメにす…

5《『かくし芸』のおかげで》

『かくし芸』はフジのバラエティの原点になった。フジのバラエティ路線を代表する番組は『火曜ワイドスペシャル』だと思われているが、その『火曜ワイスペ』の出発点になった番組が『テレビグランドスペシャル』という55分番組であることは意外に知られてい…

4《収録時の大事件》

この日の21時50分ごろ、東海道線の貨車に接触した横須賀線の上下線の電車が、鶴見駅〜新子安駅の間で二重衝突し、死者163名、重軽傷57名という大惨事となった。世に言う「国鉄鶴見事故」である。 その第一報が河田町のフジテレビに届いたとき、『かくし芸』…

3《第1回目の献立》

司会者はいなくて審査員は12名の小学生だった。タレントを東西に分け、東軍獅子舞は三木のり平とハナ肇。西軍の獅子舞は藤田まことと渥美清。献立は今とくらべてずっと素朴だった。 【東】 (1) 落語 谷 啓 (2) 蝶々夫人 石橋エータロー 安田伸 (3) 日舞 井上…

2《『かくし芸大会』の発端》

フジテレビの中でもこの番組がいつから始まったか覚えている人がいなくなった。社内のある公式印刷物には昭和41(1966)年1月『新春スターかくし芸大会』放送開始となっているが、これは同じタイトルで始まった日時をコンピュータで検索したためで、最初の…

1《編成企画で12年》

入社した年の10月改編が終わったころ、私は編成部の調査から企画に回された。企画班の先輩が「とりあえず年末年始の企画書を、君に全部書いてもらおう」と言ってニヤリとした意味がわかったのは後になってからだった。編成表を見れば、年末年始番組は大小わ…

9《鉄腕アトムを抱いて帰る》

そんな夏、大泉の東映動画(現東映アニメーション)に勤務していた兄(観一・4回卒。白川大作)から、手塚治虫さんがテレビ用のアニメ「鉄腕アトム」のサンプル作品を作る話を聞いた。手塚さんは日本のディズニーを目指して「虫プロダクション」を大泉と同…

8《視聴率と向かい合って》

入社の年、ビデオリサーチ社が設立されたが、まだ毎分刻みの視聴率を集計する機械が開発される前なので、ニールセン社を始め先発の調査期間も含めて、月に1回(一週間分)の調査は「訪問調査」が主流だった。一週間分の番組表をあらかじめ預けておく記入式…

7《編成の神様はアパッチの親分》

部長の椅子を惜しげもなくくれてしまった顔の長い部長こそ、共同通信の第一期生でニッポン放送の編成課長を経てフジの開局を準備し、「編成の神様」と言われた村上七郎さんだった。開局時に「母と子供のフジテレビ」というキャッチフレーズを作り、他局に先…

6《編成部というところ》

編成局の編成部というところは部長以下アルバイトまで入れて10人ほどの職場だった。当時のテレビ局の組織では簡便だった。プログラムと番組を作る局が編成局で、スポーツも報道も、映画の購入と吹き替えのセクションやドラマやバラエティ番組の制作も編成局…

5《わたしは言葉が分からない》

既存メディアの先輩たちに混じって、新卒の新人たちが最初に戸惑ったのは言葉である。先輩たちが勝手に自分が育った業界の用語や符丁を使うのだから、たまったものではない。アメリカのテレビ業界から来た外来語は勉強すれば分かるからまだ良い。裏方さんの…

4《ラジオ経験者の活躍》

後に日本を代表する映画監督になる五社英雄さんはニッポン放送からやってきた。開局当時「三太物語」でジュディ・オングや渡辺篤史を名子役に育てた嶋田親一さんは、新国劇を経てニッポン放送からテレビに転じた。お昼のメロドラマで「アップの太郎」と言わ…

3《テレビはすべて生放送だった》

既存メディアのDNAの中で、初期のテレビをもっとも支えたDNAは、映画よりもラジオだった。VTRが登場する前のテレビは、すべて生放送だった。VTRが登場して、VTR編集ができるようになってからは収録現場は映画の撮影現場に接近したが、生放送…

2《テレビの基礎は古いメディア人が作った》

映画や新聞には少年時代から関心があったため、素人なりに先入観やイメージがあった。ところが誕生まもないテレビの職場は、見るもの聞くもの初めてのものばかりだった。当時の社員は多分800人足らず。我々は開局3期生だから、大部分はさまざまな業界から来…