3《スターを担当する》

 に触れたように、フジ・博報堂連合がTBS・電通連合を相手に「渥美清争奪戦」をやったのが1968年だった。カラー時代を迎えた70年前後から、各局は視聴率の取れるタレントを囲い込もうとしていた。そのために各社それぞれに編成部や制作部などのセクションを越えて、「タレント担当」をつけることが流行った。
 最初は映画俳優やスター歌手の担当が多かったが、後にはお笑いの争奪戦も始まり、80年代には原作者や脚本家の抱え込みまであった。1970年6月に編成に復帰した私にも、「担当のお鉢」が廻って来た。しかも上司は一度に2人持てと言う。1人はTBS「肝っ玉母さん」で大ヒットを飛ばしていた京塚昌子である。ホームドラマが父親中心から母親中心に切り替わったとまで言われたホームドラマの顔・京塚昌子は、私がスタ千の専任になっていた間にフジでの初出演が決まり、私が復帰した2ヵ月後に放送が始まった。渥美清との共演で、題して「おれの義姉(アネ)さん」。脚本・山田洋次、演出・小林俊一のテレビドラマ「男はつらいよ」のコンビだった。「男はつらいよ」では愚兄賢妹だったのが、これは愚弟賢姉の話だった。これで当たらぬ訳がない、とみんな思った。ところが、不発ではなかったが大ヒットには遠かった。番組というものは難しいものである。
 これで京塚さんがTBSに帰ったきりになると困る。お前は付きっきりになれと言われた。失敗は許されないし、常に古巣のTBSや、石井ふく子プロデューサーと比較されるだけに、これはつらい担当だった。
 もう一人は日活の若手スター、高橋英樹だった。テレビに押されて斜陽とはいえ、彼は映画界での最後の看板スターと目されていた。その彼がテレビで初めて主演する番組の企画は既に決まっていた。あの市川右太衛門のヒットシリーズ「旗本退屈男」である。なるほど、それは多分当たるでしょうね。2人の担当と言っても、次の企画を決めるための話し相手だから、当たれば当分楽ですね、と引き受けた。実を言えば、担当と言うほどではないが、数年前にも大変な大スターの「担当の端くれ」をやったことがあった。(つづく)