16《フジの大改造。反撃の始まり》

翌年の4月末、片岡社長が私に小声で言った。「吃驚することがある」「何ですか?」「村上さんが帰って来る」。エーッ!と驚く私に「春雄さんと村上さんでフジを立て直すことになる」。春雄さんとは鹿内信隆の長男でジュニアと言われていた。えらいこっちゃ…

15《青木ヶ原から北の国へ》

春の終わりごろ、私の復帰の噂を聞いたのか、倉本聰が訪ねて来た。二人で河田町のフジテレビの入口アーケードの喫茶店でお茶を飲んだ。「6羽のかもめ」以来である。倉本が私に尋ねた。「ネットワークに何年いたの?」「足掛けだと6年だけど、丸4年ちょっ…

14《制作現場に復帰》

この仕事が刺激になって、制作現場への思いが高まった。フジの番組は相変わらず不審を極めていた。ネットワークの業務のかたわら、無意識のうちに「ホームドラマの原点」について考えていた。日本のホームドラマは小津安二郎らの松竹大船から始まった。米国…

13《21世紀の日本を考える》

全国のラジオ、テレビの民放で作った団体がある。日本民間放送連盟(民放連)と言う。毎年10月には連盟の大会(民放祭)が開かれ、番組の表彰や技術革新の展示、記念講演などを行っている。広島開局の直後、片岡総務局長に呼ばれた。私の入社当時の編成部副…

12《ネットワークも悪くない》

ネットワーク部には昭和49年10月から54年の2月末まで丸4年4ヵ月いた。忙しかった昭和50年が終わると、すっかり慣れた職場になり、系列各社の東京や本社に友人も増え、付き合いも増えた。 各社に招かれ、出張する時には、その県の歴史や風土を予習したり、…

11《広島に神風吹く。カープの初優勝》

昭和50年の広島は暑かった。新社屋ができるまでの仮事務所は国泰寺にあった。大部屋は新人を含めた社員で溢れ、みんなランニングシャツで仕事をしていた。 そのころ古葉監督率いる山本浩二以下の赤ヘル軍団・広島東洋カープは、絶好調でペナントレースを走っ…

10《腸捻転ネットの解消》

現在のテレビ朝日(ANB)は、フジと同じ年に開局した時には日本教育テレビ(NET)という教育専門局だった。その後開局した東京12チャンネルも技術教育の専門局だった。この2局が一般総合局になったのが昭和47年だった。これを機に朝日、読売、毎日の各新聞…

9《いきなり広島の開局応援》

ということで、私の最初の仕事は系列各局に対する御用聞きをやりながら、当面は主として広島の新局の開局を手伝うことになった。村上さんとは不思議な縁であり、今度は少しでもご恩返しのチャンスだと張り切った。 テレビ新広島は資本的には中国電力を中心に…

8《ネットワークの御用聞き》

私がネットワーク局のネットワーク部に配属されたのは、その全国ネット体制の仕上げの時期だった。 ネットワーク局には、個々の番組のネット交渉、連絡をする部署や、個々の番組の料金を交渉し、計算し、配分する料金班や、番組を全国のローカル局に売り歩く…

7《田中角栄の大量免許政策》

フジは開局当初、名古屋の東海テレビ、大阪の関西テレビ、福岡は九州朝日放送という基幹4局体制でスタートした。私が入社した年(1962年)に、名古屋の第三局として名古屋テレビが開局し、日テレが東海テビから出て行ったので、それ以後、東海テレビはフジ…

6《NHKと民放のネットワーク》その3

戦後の高度成長を背景に、民放の地上波テレビ局は、昭和から平成まで増え続け、現在は全国に127社を数える。続々と各地で開局する地方局を巡って、当初の日本テレビとTBSの東京キー2局による争奪戦は激烈を極めた。先発の日テレが優勢だと考え勝ちだが、2…

5《NHKと民放のネットワーク》その2

民放の場合は、関東(東京・茨城・千葉・栃木・群馬・神奈川・埼玉)、東海(愛知・岐阜・三重)、関西(大阪・京都・奈良・兵庫・滋賀・和歌山)、北九州(福岡・佐賀)、岡山・高松地区と鳥取・島根地区以外は、基本的に各県別のエリアであり、別資本であ…

4《NHKと民放のネットワーク》その1

さてネットワーク。言葉は知っていたが、テニスのネットプレーしか知らなかった私にとって、新しい職場は知らないことだらけだった。今でもテレビ業界以外の方にネットワークを説明するのは難しい。テレビ局には放送法で決められた放送エリアがある。まずNHK…

3《制作部門が切り離された》後編

TBSには、フジとは違った歴史と背景があった。それは、当時のTBS編成部の外部プロへの番組依頼能力の高さであり、企画とスタッフを選択する能力の高さだった。その能力を代表したのが希代の編成マン・瀬川城一郎だった。テレビの影響で斜陽化した日本の映画…

2《制作部門が切り離された》前編

もう一つの出来事は、制作部門の切り離し(プロダクション化)である。ことの発端はTBSだった。TBSのドラマやドキュメンタリー制作者の何人かが、昭和44年秋、人事異動の辞令の受け取りを拒否、退社してプロダクションを結成する動きが表面化した。最初は組…

1《フジに組合ができたころ》

入社12年で私は住み慣れた編成局を出て、ネットワーク局ネットワーク部に異動した。そのことを書く前に、12年の中で書き落としたことを2つだけ触れておきたい。1つはフジテレビ労働組合の結成である。当時のフジの社長は、病に倒れた水野成夫(初代社長)…

12《加藤登紀子》後編

この年はフォークが次々とヒットした年で、彼女もシンガー・ソング・ライターの草分けの一人になった。翌年、また同じ場所で飲んでいて、彼女の新曲を聞いた。「帰りたい帰れない」という、都会に出て来た若者の望郷歌である。1番から3番まで、最後のフレ…

11《加藤登紀子》前編

「6羽のかもめ」の主題歌(「かもめ挽歌」)は加藤登紀子に頼んだ。千駄ヶ谷の自宅に押しかけ、作詞・作曲・歌唱のすべてを頼んだのである。番組が当たらなかったので、テレビの力でヒットすることもなかったが、それでも彼女は自分のLPの中に入れて、コ…

10《「6羽のかもめ」を後にして》

「信兵衛」が終わった昭和49年10月、土曜日の夜の10時から「6羽のかもめ」というスタジオドラマが始まった。原案・脚本は「信兵衛」の最初の2本を書いた倉本聰。かつて三百人の団員を擁した新劇の劇団「かもめ座」は、分裂を繰り返して今や6人。座長の淡…

9《高橋英樹に始まって》その3

先生とは番組が終わっても色々お付き合いが続いた。 あるところで飲んだとき、先生がボソリとまた一言。「今、新聞の連載を頼まれて何を書こうかと考えてるんだ」。「先生、そろそろ捕物帳をお書きになったらどうですか。柴錬捕物帳と銘打って型破りなのを・…

8《高橋英樹に始まって》その2

半年の休みはすぐ終わる。次の企画に困った。適当な原作物がみつからない。ふと思いついたのが山本周五郎の「赤ひげ診療譚」である。あの赤ひげ先生が若い素浪人だったらどうだろう。小藩を脱藩して長崎で蘭学を学び、小石川の養生所ではなく、江戸の裏長屋…

7《高橋英樹に始まって》その1

高橋英樹はこのとき26歳。非常にクレバーな好青年だった。しかも大変堅実な考えの持ち主だった。日活の男性スターの多くが裕次郎を慕って石原プロに籍を置いたのに対し、彼は淡島千景の事務所に入った。その関係で、歌舞伎以外の商業演劇で淡島を相手役にす…

6《京塚昌子》

話を元に戻そう。京塚さんとのお付き合いは70年から始まった。京塚昌子40歳、私36歳。話はザックバランで、思ったことを腹の中に仕舞っておける人ではなく、お酒は飲めるし、年こそ少し上だが「可愛い女」の一面をドラマに出せればと思ったこともあった。と…

5《美空ひばりとお母さん》後編

年開けて1966年、ドラマの企画は林与一と2人主役の「花と剣」というオリジナルになり、京都時代劇の重鎮たちが本を書き、忙しい彼女のスケジュールを縫って、5月から録画を始め、10月から放送された。無事お役御免になって、寂しい反面、ほっとした記憶が…

4《美空ひばりとお母さん》前編

それは「お嬢」こと美空ひばりだった。52年の短い生涯でレコードだけでも通算4千万枚以上を売り上げた人である。デビュー以来映画、演劇、レコード、ラジオ。何をやってもヒットを連発してきた大スターなので、テレビで無理する必要も無く、新曲を出す時に…

3《スターを担当する》

先に触れたように、フジ・博報堂連合がTBS・電通連合を相手に「渥美清争奪戦」をやったのが1968年だった。カラー時代を迎えた70年前後から、各局は視聴率の取れるタレントを囲い込もうとしていた。そのために各社それぞれに編成部や制作部などのセクショ…

2《「スター千一夜」を1年担当》

入社以来12年間、編成で番組企画を担当したと書いて来たが、実はその間1年だけ、制作部に異動し、「スター千一夜」の企画デスクのような仕事をやった。この異動には訳があった。「スター千一夜」は開局以来、夜の9時台に月曜から金曜まで毎晩15分編成され…

1《カラーテレビ時代の到来》

フジテレビに入社以来、編成部で番組の企画を担当した12年間の最後の数年は、漸くカラー時代を迎えていた。カラーの技術は白黒テレビの放送開始時期にはほぼ出来上がっていたし、カラーの本放送も、実は昭和35年9月に始まっていたのだが、受像機があまりに…

10《産婆はつらいよ》

シリーズが終わってしばらくして、松竹から映画化の話が来た。まだ映画会社の方がテレビ局より偉かった時代、テレビ番組が映画になるのはフジの宣伝になると思い、「どうぞ、どうぞ」と無条件でOKしたのが私の大失敗だった。「企画フジテレビ」をタイトル…

9《幾つかの番組たち》〜『男はつらいよ』編〜

その点(前項の『若者たち』と異なり)、ギネスブックに載るほど長いシリーズになったため、『男はつらいよ』は誰もが知っている。でもこの人気映画がフジのテレビ番組から始まったことを知る人は少なくなった。NHK『夢であいましょう』など、テレビの初…