テレビの森の中で カラーテレビのころ

12《加藤登紀子》後編

この年はフォークが次々とヒットした年で、彼女もシンガー・ソング・ライターの草分けの一人になった。翌年、また同じ場所で飲んでいて、彼女の新曲を聞いた。「帰りたい帰れない」という、都会に出て来た若者の望郷歌である。1番から3番まで、最後のフレ…

11《加藤登紀子》前編

「6羽のかもめ」の主題歌(「かもめ挽歌」)は加藤登紀子に頼んだ。千駄ヶ谷の自宅に押しかけ、作詞・作曲・歌唱のすべてを頼んだのである。番組が当たらなかったので、テレビの力でヒットすることもなかったが、それでも彼女は自分のLPの中に入れて、コ…

10《「6羽のかもめ」を後にして》

「信兵衛」が終わった昭和49年10月、土曜日の夜の10時から「6羽のかもめ」というスタジオドラマが始まった。原案・脚本は「信兵衛」の最初の2本を書いた倉本聰。かつて三百人の団員を擁した新劇の劇団「かもめ座」は、分裂を繰り返して今や6人。座長の淡…

9《高橋英樹に始まって》その3

先生とは番組が終わっても色々お付き合いが続いた。 あるところで飲んだとき、先生がボソリとまた一言。「今、新聞の連載を頼まれて何を書こうかと考えてるんだ」。「先生、そろそろ捕物帳をお書きになったらどうですか。柴錬捕物帳と銘打って型破りなのを・…

8《高橋英樹に始まって》その2

半年の休みはすぐ終わる。次の企画に困った。適当な原作物がみつからない。ふと思いついたのが山本周五郎の「赤ひげ診療譚」である。あの赤ひげ先生が若い素浪人だったらどうだろう。小藩を脱藩して長崎で蘭学を学び、小石川の養生所ではなく、江戸の裏長屋…

7《高橋英樹に始まって》その1

高橋英樹はこのとき26歳。非常にクレバーな好青年だった。しかも大変堅実な考えの持ち主だった。日活の男性スターの多くが裕次郎を慕って石原プロに籍を置いたのに対し、彼は淡島千景の事務所に入った。その関係で、歌舞伎以外の商業演劇で淡島を相手役にす…

6《京塚昌子》

話を元に戻そう。京塚さんとのお付き合いは70年から始まった。京塚昌子40歳、私36歳。話はザックバランで、思ったことを腹の中に仕舞っておける人ではなく、お酒は飲めるし、年こそ少し上だが「可愛い女」の一面をドラマに出せればと思ったこともあった。と…

5《美空ひばりとお母さん》後編

年開けて1966年、ドラマの企画は林与一と2人主役の「花と剣」というオリジナルになり、京都時代劇の重鎮たちが本を書き、忙しい彼女のスケジュールを縫って、5月から録画を始め、10月から放送された。無事お役御免になって、寂しい反面、ほっとした記憶が…

4《美空ひばりとお母さん》前編

それは「お嬢」こと美空ひばりだった。52年の短い生涯でレコードだけでも通算4千万枚以上を売り上げた人である。デビュー以来映画、演劇、レコード、ラジオ。何をやってもヒットを連発してきた大スターなので、テレビで無理する必要も無く、新曲を出す時に…

3《スターを担当する》

先に触れたように、フジ・博報堂連合がTBS・電通連合を相手に「渥美清争奪戦」をやったのが1968年だった。カラー時代を迎えた70年前後から、各局は視聴率の取れるタレントを囲い込もうとしていた。そのために各社それぞれに編成部や制作部などのセクショ…

2《「スター千一夜」を1年担当》

入社以来12年間、編成で番組企画を担当したと書いて来たが、実はその間1年だけ、制作部に異動し、「スター千一夜」の企画デスクのような仕事をやった。この異動には訳があった。「スター千一夜」は開局以来、夜の9時台に月曜から金曜まで毎晩15分編成され…

1《カラーテレビ時代の到来》

フジテレビに入社以来、編成部で番組の企画を担当した12年間の最後の数年は、漸くカラー時代を迎えていた。カラーの技術は白黒テレビの放送開始時期にはほぼ出来上がっていたし、カラーの本放送も、実は昭和35年9月に始まっていたのだが、受像機があまりに…