12《加藤登紀子》後編

 この年はフォークが次々とヒットした年で、彼女もシンガー・ソング・ライターの草分けの一人になった。翌年、また同じ場所で飲んでいて、彼女の新曲を聞いた。「帰りたい帰れない」という、都会に出て来た若者の望郷歌である。1番から3番まで、最後のフレーズがすべて「帰りたい 帰れない 帰りたい 帰れない」になっているのが女々しい感じがして、「3番目の最後だけ、『帰りたい 帰らない』にすれば?」と言ったら、彼女は「そうだね、開き直ってその方が良いね」と直したことがあった。最初に発売したレコードの歌詞カードは「帰れない」のままだが、次のLPから「帰らない」になって、コンサートでも「帰らない」で歌っている。

 この70年の暮れは、あの森繁久彌の「知床旅情」を彼女が歌ったレコードが発売され、これが大ヒット。レコード大賞歌唱賞を再び受賞、紅白出場を果たした。

トコの母加藤淑子は今年93歳。終戦直後の瀋陽から女一人で3児を抱えつつ、1年2ヵ月かかって日本にたどり着いてから今日までの、波乱に飛んだ自伝を数年前に出版した。

ハルビンの詩がきこえる

ハルビンの詩がきこえる

幸四郎は16年前に82歳で他界したが、淑子と結婚して加藤姓となり、大陸に渡って満鉄の社員になった豪快奔放な男である。一年遅れて引き揚げ、芸能関係の仕事を経てロシア料理店を開店した。登紀子の加藤家もひばりの加藤家と同じく女系家族であった。
 「知床旅情」の大ヒットでトコは初めて大ホールのコンサートを開いた。71年3月31日の満員のサンケイホールのステージで、駆けつけた森繁久彌から花束を受け取る初々しい登紀子は忘れられない。以来今日まで、私は彼女のファンであり続けている。昔は夏になると日比谷の野外でビールを飲みながら彼女の歌を聞いた。最近の夏はオーチャード・ホールで歌うことが多い。今年のオーチャードでは、彼女は昭和歌謡曲の名曲を歌った。淡谷のり子や二葉あき子、裕次郎、ひばり、中島みゆき尾崎豊・・・。中でも淡谷の「夜のプラットホーム」とひばりの「愛燦々」が絶品だった。何かの縁で2つの女系加藤家に出入りして来たが、2人は歌手のベクトルが異なると思い込んでいた。でもトコの「愛燦々」を聞いて初めて、二人の歌心の根っこは同じだったんだと思った。
 年末恒例の新宿コマ地下のシアターアプルでの「ほろ酔いコンサート」も、昭和58年以来25回目になるが、コマの改築で今年で終了することになった。「ほろ酔いラストコンサート」は、今年12月26日から30日の5日間。一緒に聞きに行きませんか。