13《21世紀の日本を考える》

 全国のラジオ、テレビの民放で作った団体がある。日本民間放送連盟(民放連)と言う。毎年10月には連盟の大会(民放祭)が開かれ、番組の表彰や技術革新の展示、記念講演などを行っている。広島開局の直後、片岡総務局長に呼ばれた。私の入社当時の編成部副部長である。
 話は民放大会のことだった。来年はフジが幹事社で総務局の仕事なんだと言う。しかも来年は民放連結成25周年記念大会なので、何か趣向が欲しい。「お前、企画担当で事務局に入れ。ネットワーク局長や部長には俺が了解を取る」。相棒であるプロデューサーは、長さんこと尾崎長が報道局から選抜された。彼はかつての五社英雄組の一人で気心は知れている。長さんと相談しながら「来年は1976年で25周年。それから25年経った50周年は2001年で、21世紀の第一年目になる」ことに気づいた。25年後に迎える21世紀。いいねえ。自画自賛しながら「21世紀の日本を考える」という近未来論をやることにした。総合司会は「日本沈没」で大ヒットを放ったばかりの小松左京に狙いを定め、二人で箕面市の小松邸に押しかけ、くどき落とした。小松先生も悪乗りして小松のKにちなんでパネリストも全員Kで行こうと、その場で人選を始めた。何しろ学会に人脈の多い小松先生である。たちまち国際論の高阪正尭、文化人類学の権威で探検家の川喜田二郎、経済学の加藤寛、農業経済学の権威・川野重任錚々たる学者の名があがり、運良くすべてのKさんが翌年の10月6日に空いていた。しかし全員が多忙な方々なので、その日まで全員が一堂に会しての会議は無理だった。当日まで小松先生が上京する度に、彼の宿泊先のホテルに、空いている先生に集まってもらい、出席者の専門分野別に予備討論をした。これが楽しかったし、若輩には勉強になった。ローマクラブの「宇宙船地球号」を視点にして、地球の資源と環境を論じたシンポジウムは、当時としては新鮮で好評だった。これは恐らく日本で最初に公式に行われた21世紀論だった。