2009-01-01から1年間の記事一覧

16《フジの大改造。反撃の始まり》

翌年の4月末、片岡社長が私に小声で言った。「吃驚することがある」「何ですか?」「村上さんが帰って来る」。エーッ!と驚く私に「春雄さんと村上さんでフジを立て直すことになる」。春雄さんとは鹿内信隆の長男でジュニアと言われていた。えらいこっちゃ…

15《青木ヶ原から北の国へ》

春の終わりごろ、私の復帰の噂を聞いたのか、倉本聰が訪ねて来た。二人で河田町のフジテレビの入口アーケードの喫茶店でお茶を飲んだ。「6羽のかもめ」以来である。倉本が私に尋ねた。「ネットワークに何年いたの?」「足掛けだと6年だけど、丸4年ちょっ…

14《制作現場に復帰》

この仕事が刺激になって、制作現場への思いが高まった。フジの番組は相変わらず不審を極めていた。ネットワークの業務のかたわら、無意識のうちに「ホームドラマの原点」について考えていた。日本のホームドラマは小津安二郎らの松竹大船から始まった。米国…

13《21世紀の日本を考える》

全国のラジオ、テレビの民放で作った団体がある。日本民間放送連盟(民放連)と言う。毎年10月には連盟の大会(民放祭)が開かれ、番組の表彰や技術革新の展示、記念講演などを行っている。広島開局の直後、片岡総務局長に呼ばれた。私の入社当時の編成部副…

12《ネットワークも悪くない》

ネットワーク部には昭和49年10月から54年の2月末まで丸4年4ヵ月いた。忙しかった昭和50年が終わると、すっかり慣れた職場になり、系列各社の東京や本社に友人も増え、付き合いも増えた。 各社に招かれ、出張する時には、その県の歴史や風土を予習したり、…

11《広島に神風吹く。カープの初優勝》

昭和50年の広島は暑かった。新社屋ができるまでの仮事務所は国泰寺にあった。大部屋は新人を含めた社員で溢れ、みんなランニングシャツで仕事をしていた。 そのころ古葉監督率いる山本浩二以下の赤ヘル軍団・広島東洋カープは、絶好調でペナントレースを走っ…

10《腸捻転ネットの解消》

現在のテレビ朝日(ANB)は、フジと同じ年に開局した時には日本教育テレビ(NET)という教育専門局だった。その後開局した東京12チャンネルも技術教育の専門局だった。この2局が一般総合局になったのが昭和47年だった。これを機に朝日、読売、毎日の各新聞…

9《いきなり広島の開局応援》

ということで、私の最初の仕事は系列各局に対する御用聞きをやりながら、当面は主として広島の新局の開局を手伝うことになった。村上さんとは不思議な縁であり、今度は少しでもご恩返しのチャンスだと張り切った。 テレビ新広島は資本的には中国電力を中心に…

8《ネットワークの御用聞き》

私がネットワーク局のネットワーク部に配属されたのは、その全国ネット体制の仕上げの時期だった。 ネットワーク局には、個々の番組のネット交渉、連絡をする部署や、個々の番組の料金を交渉し、計算し、配分する料金班や、番組を全国のローカル局に売り歩く…

7《田中角栄の大量免許政策》

フジは開局当初、名古屋の東海テレビ、大阪の関西テレビ、福岡は九州朝日放送という基幹4局体制でスタートした。私が入社した年(1962年)に、名古屋の第三局として名古屋テレビが開局し、日テレが東海テビから出て行ったので、それ以後、東海テレビはフジ…

6《NHKと民放のネットワーク》その3

戦後の高度成長を背景に、民放の地上波テレビ局は、昭和から平成まで増え続け、現在は全国に127社を数える。続々と各地で開局する地方局を巡って、当初の日本テレビとTBSの東京キー2局による争奪戦は激烈を極めた。先発の日テレが優勢だと考え勝ちだが、2…

5《NHKと民放のネットワーク》その2

民放の場合は、関東(東京・茨城・千葉・栃木・群馬・神奈川・埼玉)、東海(愛知・岐阜・三重)、関西(大阪・京都・奈良・兵庫・滋賀・和歌山)、北九州(福岡・佐賀)、岡山・高松地区と鳥取・島根地区以外は、基本的に各県別のエリアであり、別資本であ…

4《NHKと民放のネットワーク》その1

さてネットワーク。言葉は知っていたが、テニスのネットプレーしか知らなかった私にとって、新しい職場は知らないことだらけだった。今でもテレビ業界以外の方にネットワークを説明するのは難しい。テレビ局には放送法で決められた放送エリアがある。まずNHK…

3《制作部門が切り離された》後編

TBSには、フジとは違った歴史と背景があった。それは、当時のTBS編成部の外部プロへの番組依頼能力の高さであり、企画とスタッフを選択する能力の高さだった。その能力を代表したのが希代の編成マン・瀬川城一郎だった。テレビの影響で斜陽化した日本の映画…

2《制作部門が切り離された》前編

もう一つの出来事は、制作部門の切り離し(プロダクション化)である。ことの発端はTBSだった。TBSのドラマやドキュメンタリー制作者の何人かが、昭和44年秋、人事異動の辞令の受け取りを拒否、退社してプロダクションを結成する動きが表面化した。最初は組…

1《フジに組合ができたころ》

入社12年で私は住み慣れた編成局を出て、ネットワーク局ネットワーク部に異動した。そのことを書く前に、12年の中で書き落としたことを2つだけ触れておきたい。1つはフジテレビ労働組合の結成である。当時のフジの社長は、病に倒れた水野成夫(初代社長)…