1《フジに組合ができたころ》

 入社12年で私は住み慣れた編成局を出て、ネットワーク局ネットワーク部に異動した。そのことを書く前に、12年の中で書き落としたことを2つだけ触れておきたい。1つはフジテレビ労働組合の結成である。当時のフジの社長は、病に倒れた水野成夫(初代社長)の後を継いだ鹿内信隆だった。彼はニッポン放送を設立する前には日経連にいた。終戦直後の嵐のような労働運動と対決してきただけあって、彼は組合不要論者だった。そのためフジには労組はなかった。深夜にわたる残業が続いても、休日が取れなくても、賃上げを交渉しようにも、その窓口は人事部の中間管理職が出てくるだけで、経営者は顔を見せず、条件を改善するパイプは無いに等しかった。「女子社員25歳定年制」という、信じられないような制度が存在していた、というだけで当時の労働条件が想像できよう。組合結成の準備の中心は制作や技術の若手だった。彼らに説得されて私も準備の仲間に入った。圧倒的な組織率で組合組織が成功したのは昭和41年5月のこと。初代委員長に岡田太郎、副委員長に嶋田親一というフジを代表するドラマ・ディレクターが選任された。私も初代執行委員会の末席を汚した。一年後の二代目執行部では一年先輩の日枝久(現フジテレビ会長)が書記長を務めた。組合幹部には配転や嫌がらせが色々あったが、執行部に入る人材には事欠かなかった。10年ほど経って、流石の会社も組合の若い人材を活用しなければ、会社の業績も上がらないことに、ようやく気づくようになった。平成18年5月、組合は結成40周年を迎え、台場の社屋でパーティーを開いた。私も出席した。
 そこで日枝が挨拶をし、思い出を語り、最後に付け加えた。「古い人なら知っていることですが、私は職場結婚でした。その家内は、実は25歳でフジを定年になった最初の女子社員でした」。