8《幾つかの番組たち》〜『若者たち』編〜

 編成部の企画担当は何でも屋なので、関わったドラマも多い。白黒時代で『三匹の侍』以外に記憶に残るものは『若者たち』と『男はつらいよ』だろうか。
 2005年の春、北海道新聞のS編集委員の訪問を受けた。『若者たち』のころの話を聞きたいという。
 「道新」の愛称で知られるこの新聞は、北海道では朝読以下の他紙の追随を許さない。戦後60年目を迎えるこの年から、団塊の世代が定年を迎え出すので、道新は「戦後60年定年ニッポン考」という連載を元旦から始めた。それが第1部から第4部まで終わって、5月末からテレビドラマをテーマにした第5部「ドラマよ、ありがとう」というシリーズを始める。その取材だった。
 第5部が終わったところで送られてきたコピーを見たら、選ばれていたドラマは9つ。その中に私が関わった番組が2つ入っていた。『若者たち』と『北の国から』である。参考までに放送順に9番組を並べてみる。
 『私は貝になりたい』(1958)、『若者たち』(1966)、『飛び出せ! 青春』(1972〜73)、『太陽にほえろ!』(1972〜86)、『寺内貫太郎一家』(1974)、『赤いシリーズ』(1974〜81)、『岸辺のアルバム』(1977)、『北の国から』(本編1981〜82)、『男女7人夏物語』(1986)。
 『北の国から』については次回以降にふれよう。

 『若者たち』は、準備も何もなく、セッパつまって生まれた企画だった。昭和40年の10月から始まった月曜8時のホームコメディを提供していたスポンサーが、2ヵ月もしないのに「視聴率は落ちてもよいから、もっとマジメなホームドラマに変えてくれ」と、突然言い出したのである。カラー番組と比較して、当時の制作費はまだそれほどでもなく、従って1社提供の番組が多かった。その単独提供社の中に時々こうした会社があった。多くは原料をメーカーに売っている会社で、消費者に訴える商品を持っていない。そうした商品を宣伝するよりも、求人効果や工場の士気高揚のために番組を提供するタイプである。このような、視聴率よりもイメージを大切にする会社は、今はほとんど絶滅した。
 さて、番組を早く変えろと言われても、PDを決めなければいけない。そのPDと企画をまとめて、役者押さえと並行して年内に脚本ができるか。それで2月スタートがやっと……。というこちらの事情も知らずに現れたのが森川時久PDだった。彼は昭和38年に90分ドラマ『夏』(山内久脚本)で芸術祭激励賞第一席、翌39年テレビ初出演の山本富士子による30分ドラマ4回シリーズ『にごりえ』(山内久脚本)で第1回ギャラクシー賞を受賞。同年、俳優座の新人栗原小巻を起用(彼女の面接には私も立ち会った)し、初監督した30分テレビ映画13回シリーズ『みつめいたり』(立原りう脚本)はテレビ記者会賞を受賞するなど、フジテレビの賞取り男として知られていたが、番組制作のすべての段階で粘り過ぎて、制作時間と制作費の大幅なオーバーの常習犯だったため、渋い顔をする社の上層部も多かった。彼は「いいオヤジといいオフクロがいて、子供たちと時間を合わせて晩飯食って、お説教してメデタシメデタシという家庭なんか日本にあるかい」と、当時各局で視聴率を上げていた絵に描いたようなホームドラマを批判し、好んでいろいろな時代の青春像を描いた。
 彼が「これ企画にならないかな」と持ってきた毎日新聞の切り抜きは、両親のない5人兄弟が大阪の下町で苦労する話だった。彼は働く若者の青春ドラマとして持ってきたのだが、「両親のいないホームドラマということで営業を説得できれば、月曜8時ですぐ実現できますよ。実は私の学生時代がこれとそっくりでしたから、これもホームドラマです」と昔のことを話しだすと、彼は飛び上がって「それやろう! すぐ企画書にしよう!」と電話に飛びついた。脚本の山内久さんと俳優座のテレビ担当のマッちゃんこと松木征二さんを加えた4人が集合した。新宿中村屋の最上階に当時「ととや」という旅館があり、そこを一晩借りた。私は大学1年目に母を失い、4年目に父を失った。そのため我々6人兄弟妹のうち、観一在学の次女を受験準備のため伯父の家に預け、就職したてで会社の寮に入っていた兄をむりやり引っ張り込んで、5人で板橋に一軒借りて、共同生活した時期があった。その話を聞きながらマッちゃんがキャスティングし、決まった俳優から性格や仕事を決め、朝までに何とか企画書を書き上げた。長男・田中邦衛は建設現場で働き、次男・橋本功は長距離トラックの運転手。三男・山本圭はアルバイトしながら学生運動もやる大学生で、長女・佐藤オリエは主婦代わりの雑役を背負いながらの女子事務員。彼女の本名をドラマの中で一致させるため、この家庭を佐藤家にした。この番組でテレビにデビューした末っ子松山省二(後に正路)は悩み多き受験生。新聞記事の方の舞台は大阪だったが、番組では東京の下町にした。
 奇跡的に41年2月1週から番組はスタート出来たが、ストックを持たずに始まったため、脚本の遅れと半徹夜が続く撮影時間との死闘が最後まで続いた。6回目あたりでも視聴率は10%以下。3月一杯での打ち切りの危機を、4月編成で金曜8時に時間移動することで切り抜けた。視聴率も18%まで上がり、「きみの行く道は果てしなく遠い」で始まる主題歌(藤田敏雄・作詞、佐藤勝・作曲)を、成城大学生だった黒澤久雄を中心とする男性コーラス・ブロードサイド・フォーが歌って次第にヒットし、後に中学の音楽教科書に採用された。
 最後まで20%には届かなかったが、集団就職世代や根っこの会世代から熱烈な支持を受け、「日本のテレビ開始以来13年目にして初めて生まれたディスカッションドラマ」という批評まで出た。番組は第3回ギャラクシー賞、第5回テレビ記者会賞を受け、放送番組向上委員会推薦番組となった。
 放送終了時までに寄せられた感想文や投書は10万通を超えた。「一通の投書のうしろに10人の視聴者がいる」と見た新星映画社の松丸青史さんや俳優座の佐藤正之代表が中心となって、森川監督による映画が昭和42年から制作された。しかし大手映画5社の配給ルートに入ることができず、やむなく各地に上映委員会を組織する自主上映を開始した。これに火がついた。2年間で150万人の動員に成功し、大手映画会社を驚嘆させた。
 映画は『若者は行く』『若者の旗』と3本作られた。『若者たち』から30年近く経った1993年、この番組を原作にした『ひとつ屋根の下』が月曜9時で大ヒットした。それすら今の学生さんたちには通じなくなった。『若者たち』が遠くなるのも無理はない。

フジテレビ開局50周年記念DVD 若者たち

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