16《フジの大改造。反撃の始まり》
翌年の4月末、片岡社長が私に小声で言った。「吃驚することがある」「何ですか?」「村上さんが帰って来る」。エーッ!と驚く私に「春雄さんと村上さんでフジを立て直すことになる」。春雄さんとは鹿内信隆の長男でジュニアと言われていた。えらいこっちゃ。
5月初めにフジの全体会議が開かれ、鹿内信隆会長が強化本部長となり、浅野社長は民放連会長に専念、本部長代行に鹿内春雄を任命し、全権を与えた。編成・制作担当専務に村上七郎が復帰、6月1日、編成局が一新され、日枝久が43歳の若さで編成局長に抜擢された。
編成部長は営業からやってきた中出傳二郎。私と村上光一は企画担当の副部長になった。同時に制作局が新設され、フジプロとフジ制作の社員が全員復帰した。2社を束ねた片岡社長は総務担当役員に転じた。彼はかなり前から春雄とともにプロダクションの解消を検討していたらしい。時やよし。「北の国から」の企画マンだった私が、そのゴーサインを制作局に復帰した中村敏夫に出す立場になった。厳しい冬のシーンを撮影するため、一年前からのクランクインであった。村上専務と日枝局長は翌56年の春・秋の改編を第二の開局と位置付けた。この番組はその56年秋から半年間放送されたあと、すべて同じ出演者のまま、以後20年間に8本のスペシャル版を放送、「国民番組」と言われた。 (了)
15《青木ヶ原から北の国へ》
春の終わりごろ、私の復帰の噂を聞いたのか、倉本聰が訪ねて来た。二人で河田町のフジテレビの入口アーケードの喫茶店でお茶を飲んだ。「6羽のかもめ」以来である。倉本が私に尋ねた。「ネットワークに何年いたの?」「足掛けだと6年だけど、丸4年ちょっとかな」「そんなに長く休んでいたのなら、少しはいい企画を考えて来たろ?」「まあね」と、私は富士の裾野に丸木小屋を建ててホームドラマを作る話をした。途端に、大きな音を立てて彼が立ち上がった。喫茶店の中央の熱帯魚の水槽柱の横に、彼は直立していた。驚く私に最敬礼をして言った。「それを富良野でやらせてよ! 文ちゃん」「富良野って何?」。彼は座り直してコースターの裏に北海道の絵を描き、その真ん中に印を入れた。「富良野ってのは、いま俺が住んでる所。北海道の真ん中で、北海道のヘソと言われている。夏にはヘソ祭りもある」。
私の知っている倉本家は杉並の善福寺だった。そこから北海道に引っ越したと言う。彼は言葉を尽くして北海道の自然の豊かさと凄みを説明した。それは分かるが、直感では制作費が掛かり過ぎた。毎週通うスタッフや俳優の交通費と滞在費の差は大きい。生返事をする私に「とにかく富良野を見に来てよ」と言って彼は去った。
その夏、「6羽のかもめ」の俳優座側プロデューサーだった垣内健二と、新制作のプロデューサーでフジプロに合流していた中村敏夫の三人で富良野を訪問した。富良野プリンスホテルのすぐそばに倉本聰夫妻の家があった。
彼はジープを運転して東大の演習林や麓郷を案内してくれた。近くにゴルフ場があり、まだゴルフを覚えていなかった私を残して三人はゴルフに出掛けた。残った私はホテルの庭にいた。向こうの林から突然顔を出したキタキツネに驚いた。急いで写真に撮り、独りで納得していた。こんな近くにキタキツネがいる。林の奥にはキツツキやフクロウ、エゾシカにヒグマ…。やはり青木ヶ原より北海道が正解か。やがて倉本から登場人物表が送られてきた。それに私が企画意図と前書きを付けて、二人の筆跡のままコピーして、企画書を10冊限定で作った。スポンサーに見せるのではなく、本社編成部を説得するための企画書である。タイトルは白川案で「北の国から」(仮題)にしたが、倉本はさだまさしの新曲「関白宣言」をもじって考えた「腕白宣言」にこだわり、説得に苦労した。その企画書にあのキタキツネの写真を貼り、片岡社長に見せた。彼は「面白い。準備は進めていいが、企画書は編成に出すな。しまっておけ」。どうして?という私に、彼は「今に分かるから」と笑うだけだった。
14《制作現場に復帰》
この仕事が刺激になって、制作現場への思いが高まった。フジの番組は相変わらず不審を極めていた。ネットワークの業務のかたわら、無意識のうちに「ホームドラマの原点」について考えていた。日本のホームドラマは小津安二郎らの松竹大船から始まった。米国のホームドラマの原点は何かと考えているうちに、原点は西部開拓史ではないか、と思うようになった。ヒントは当時テレビで人気のあった「大草原の小さな家」である。男たちが外敵と戦い、土地を耕し、獣を狩る間に、主婦は丸太小屋を守り、料理を作り、子供を育てた。その歴史が女性の少ないフロンティアで主婦の立場を強めた。家の外は美しい自然であると同時に、危険が一杯の自然である。
危険は嵐や吹雪などの自然だけではない。フロンティアでは毒蛇もいれば野獣もいる。私が住んでいた団地では、夕暮れになると、周りの上下階の窓が開いて、外で遊ぶ子供たちを呼ぶ母親たちの声が響く。「◯◯ちゃーん、ご飯ですよー」。叫ぶ母親も叫ばれる子供も危険を感じていないが、西部開拓史では子供の返事がないときは、生命の危険を意味した。そのことに気づいて、日本でも自然の中で子供と親が生活しつつ、知恵と技術を学んで行くホームドラマができないか、と考えた。フィルムよりもVTRのドラマにしたい。毎週役者とスタッフが往復できる便利な場所は? 中央高速で2時間もあれば、富士の裾野がある。例えば青木ヶ原に、都会を捨てた一家が丸太小屋を建設するところからドラマを始める。もう一度現場に復帰したら、これをやりたいと思った。
54年が明けて片岡総務局長に呼ばれた。「制作に行ってくれ」と言う。「どこのプロダクションですか」
すでに4プロダクションのうち「フジポニー」と「ワイドプロ」は合併してフジ制作になり、「新制作」はフジプロに吸収されていた。「フジプロとフジ制作の2つの会社の企画デスクを兼務しろ」と事もなげに言って付け加えた。「実は3月から、俺が両方の会社の社長を兼務するんだ」。後で考えれば、それはフジテレビの大激変の前触れだったのだが、そこまでは頭が回らなかった。
昭和54年3月、私はその2社に出向した。
13《21世紀の日本を考える》
全国のラジオ、テレビの民放で作った団体がある。日本民間放送連盟(民放連)と言う。毎年10月には連盟の大会(民放祭)が開かれ、番組の表彰や技術革新の展示、記念講演などを行っている。広島開局の直後、片岡総務局長に呼ばれた。私の入社当時の編成部副部長である。
話は民放大会のことだった。来年はフジが幹事社で総務局の仕事なんだと言う。しかも来年は民放連結成25周年記念大会なので、何か趣向が欲しい。「お前、企画担当で事務局に入れ。ネットワーク局長や部長には俺が了解を取る」。相棒であるプロデューサーは、長さんこと尾崎長が報道局から選抜された。彼はかつての五社英雄組の一人で気心は知れている。長さんと相談しながら「来年は1976年で25周年。それから25年経った50周年は2001年で、21世紀の第一年目になる」ことに気づいた。25年後に迎える21世紀。いいねえ。自画自賛しながら「21世紀の日本を考える」という近未来論をやることにした。総合司会は「日本沈没」で大ヒットを放ったばかりの小松左京に狙いを定め、二人で箕面市の小松邸に押しかけ、くどき落とした。小松先生も悪乗りして小松のKにちなんでパネリストも全員Kで行こうと、その場で人選を始めた。何しろ学会に人脈の多い小松先生である。たちまち国際論の高阪正尭、文化人類学の権威で探検家の川喜田二郎、経済学の加藤寛、農業経済学の権威・川野重任。錚々たる学者の名があがり、運良くすべてのKさんが翌年の10月6日に空いていた。しかし全員が多忙な方々なので、その日まで全員が一堂に会しての会議は無理だった。当日まで小松先生が上京する度に、彼の宿泊先のホテルに、空いている先生に集まってもらい、出席者の専門分野別に予備討論をした。これが楽しかったし、若輩には勉強になった。ローマクラブの「宇宙船地球号」を視点にして、地球の資源と環境を論じたシンポジウムは、当時としては新鮮で好評だった。これは恐らく日本で最初に公式に行われた21世紀論だった。
12《ネットワークも悪くない》
ネットワーク部には昭和49年10月から54年の2月末まで丸4年4ヵ月いた。忙しかった昭和50年が終わると、すっかり慣れた職場になり、系列各社の東京や本社に友人も増え、付き合いも増えた。
各社に招かれ、出張する時には、その県の歴史や風土を予習したり、県出身の古今の有名人を調べて出掛けた。地方局の経営者はどうしても年長者が多いし、マスコミだけに文化人、教養人が多い。美術に高い見識を持つ人もおり、郷土史の専門家もいた。そうした人たちと話を合わせるには、予習するしかなかった。そうした機会に親しくなる人も増え、長いお付き合いになった。訪問先の名産品や食の旬を知るのも勉強である。ローカルから見れば全国にPRしたいものばかりである。その相談を受けたり、知恵を出し合ったり、編成とは違った意味で、退屈することはなかった。4年と数ヵ月はあっと言う間に過ぎてしまった。訪問先で地元の優れた芸術家と知り合えたことも忘れ難い。地方局の報道部長や制作部長やプロデューサーは、当然ながら地元に深い人脈を持っている。イチゲンで訪問するより、彼らに紹介してもらう方が良いのは言うまでもない。焼き物が好きな私はサガテレビのお陰で唐津の中里太郎右衛門・隆兄弟をはじめ、有田の今右衛門や伊万里、黒牟田の何人かの作家を知った。福島テレビでは本郷焼を、愛媛放送では砥部焼の有望作家と知り合った。岡山放送では山本出という備前焼の若手作家を紹介された。私より8歳年下の彼は、翌年日本工芸展の奨励賞を受賞する。その縁で父君の山本陶秀(1906〜94)と知り合うことができた。素晴らしい人柄と技術に魅せられて通ううちに、焼き物好きな浜美枝や岡田太郎・吉永小百合夫妻を山本家に案内することになる。山本陶秀が重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けたのは、知り合って10年以上経った昭和62年のことだった。
11《広島に神風吹く。カープの初優勝》
昭和50年の広島は暑かった。新社屋ができるまでの仮事務所は国泰寺にあった。大部屋は新人を含めた社員で溢れ、みんなランニングシャツで仕事をしていた。
そのころ古葉監督率いる山本浩二以下の赤ヘル軍団・広島東洋カープは、絶好調でペナントレースを走っていた。カープはまだ優勝したことがなかったが、街では「ひょっとすると?」が段々「絶対優勝や!」に変化して来た。10月1日のTSS開局を過ぎても、広島市民の関心はカープ優勝だけだった。どの飲食店でも「今夜のカープ速報」を客に知らせていた。TSSも便乗した。
開局してすぐ「もしもカープが優勝したら?」というテーマのCM参加を商店街に呼びかけたら、これが売れた。「ウチのラーメン半額にします」から「8割引や9割引」の商店まで出現し、リレーで毎日スポットを買ってくれた。そして10月15日にカープは球団創立26年目に初優勝した。広島は町中大騒ぎになった。
さあ日本シリーズである。このとき、TSSに神風が吹いた。パ・リーグの優勝が阪急ブレーブスに決まったのである。ブレーブスの親会社は阪急電鉄で、フジ系の関西テレビの大株主である。阪急から西宮からの試合は関西テレビが独占中継する。その試合は広島ではTSSのチャンネルでなければ見ることができない。
これを神風と言わずに何と言おうか。
開局を前にした第三、第四局の泣き所は、UHFの電波が受けられない旧式の受像機が多いことだった。家庭では3000円払ってフィルターを付けたり、マンションでは共同アンテナの改修が必要だった。10月25日から日本シリーズの第一戦、第二戦は西宮から関西テレビ〜TSSの独占放送。さらに試合の展開で第六、第七戦もTSSと発表されるや、電機屋にパニックが起きた。
UHFを見ることのできる新型受像機も売れたし、旧式に付けるフィルターも売れに売れた。結局、シリーズは阪急の4勝2引き分けで終わったが、TSSは6試合のうち3試合放送できた。VHF局だけでなく、UHF局も見える受像機が普及できたことは大きかった。
10《腸捻転ネットの解消》
現在のテレビ朝日(ANB)は、フジと同じ年に開局した時には日本教育テレビ(NET)という教育専門局だった。その後開局した東京12チャンネルも技術教育の専門局だった。この2局が一般総合局になったのが昭和47年だった。これを機に朝日、読売、毎日の各新聞社間の談合が進み、朝・読が持っていたTBSの株は毎日新聞に売却、毎・朝が持っていた日本テレビの株は読売に譲渡が決まった。また、NETの大株主である朝日と12チャンネルの株主である日経新聞の間の話も進み、日経が持っているNETの株を朝日に譲ることも決まった。この結果、TBSと毎日新聞、NTVと読売新聞、NETと朝日新聞、12チャンネルと日経新聞という提携関係ができあがり、日本教育テレビ(NET)は全国朝日放送(ANB)と社名を変更して、朝日新聞系のテレビ局であることを鮮明にした。このことはネットワークの再編につながった。昭和50年3月末をもって大阪の毎日放送がNETとのネットを打ち切ってTBSとネットを組み、反対に大阪の朝日放送はTBSとネットを打ち切ってNETとネットを組むという突然の発表だった。裏面での新聞同士の談合は2年間続いていたが、視聴者には寝耳に水だった。それまで毎日放送が制作放送していた「仮面ライダー」は、東京ではNETの番組表に載っていたので、東京の視聴者はNETの番組だと思っていた。それが4月からTBSの番組表に引っ越す。大阪の視聴者はこれまで視聴率絶好調のTBS番組と朝日放送制作の「必殺シリーズ」を朝日放送で見ていた。だから朝日放送(ABC)の人気も営業成績も抜群だった。それらの好調番組が4月からゴッソリ毎日放送の番組になったわけで、それから長い間朝日放送は苦労することになった。東京の番組表で見るとTBSは「必殺シリーズ」を失って「仮面ライダー」を得た。NETは「仮面ライダー」を失って「必殺シリーズ」を得たことになる。新聞各紙は一斉に「腸捻転ネットの解消」という扱いで済ませたが、視聴者が戸惑ったことは言うまでもない。でも新参の私にとっては、この事件のレポートを担当したため、他系列も含めて、ネットワークの成り立ちや資本関係など、色々勉強させてもらった。