9《いきなり広島の開局応援》

 ということで、私の最初の仕事は系列各局に対する御用聞きをやりながら、当面は主として広島の新局の開局を手伝うことになった。村上さんとは不思議な縁であり、今度は少しでもご恩返しのチャンスだと張り切った。
 テレビ新広島は資本的には中国電力を中心に計画された。中電は社長以下総務系の人材を出し、フジと関西テレビから営業、編成の現場の幹部要員が両社で計10名ほど出向した。明けて昭和50年。地元を中心にした第一期生の採用に立ち会った。広島の港に近い出汐という所に新社屋ができあがるのは夏である。本社より先に東京支社が築地に開業。営業が走り出した。春先になるとフジの映画部長から転じたTSS編成局長の竹内さんが石神井の我が団地にやってきた。「オイ、開局前の試験放送の番組表を作ってくれよ」。彼は村上親分とともに広島に単身赴任だった。私の編成部時代も知っていて「ついでに開局の編成表も頼むぜ」と任されてしまった。彼も多忙を極めていた。キー局からすべての番組を受けるだけの地方局なら楽だったが、広島にはプロ野球カープがあった。広島市民球場から全国ネットするCーG戦の権利の争奪戦が大仕事だった。権利を取ったら自分の局から全国に中継しなければならない。それだけではない。カープは広島では人気があるので、Gカード以外のカープ戦もローカルタイムで随時放送しなければならない。アナウンサー始め、スポーツ中継スタッフの養成が急がれた。アナウンサー要員で採用した新人はフジに送って、東京で特訓中である。そんな中に事件が飛び込んで来た。テレビ業界に地殻変動が始まっていた。

8《ネットワークの御用聞き》

 私がネットワーク局のネットワーク部に配属されたのは、その全国ネット体制の仕上げの時期だった。
 ネットワーク局には、個々の番組のネット交渉、連絡をする部署や、個々の番組の料金を交渉し、計算し、配分する料金班や、番組を全国のローカル局に売り歩く番組販売の部署などがあった。私の最初の部署はネットワーク部の渉外班。何をするんですかと聞いたら、「フジの系列局のための御用聞きだ」と言われた。フジ系列はフジ・ネットワーク・システムを略してFNSと言う。当時のFNSはフジを含めて「全国27局体制」を豪語していた。まずそのフジ以外の26社の名前とアルファベットの略称を一夜漬けで覚えた。略称が厄介で、ルールのない符丁だった。北海道文化放送UHBテレビ宮崎UMK福島テレビFTV福井テレビはFTB。山形テレビがYTSでテレビ山口TYS仙台放送OXは、仙台名物の牛タンから由来したとしか思えなかった。こうした符丁を覚えなければ電話も取れない。
 御用聞きの手初めは東京支社廻りである。どの業界もそうだろうが、支社の場所と支社長以下の社員の顔と名前を覚えるのも、一度に26社はきつかった。系列局といっても色々ある。まずフジだけをキー局にしている加盟社の局と、クロス局といって他のキー局の番組も受けている局があった。クロス局は東京のキー局を1つに決めずに、他のキー局とも等距離外交をする局のことである。キー局から見れば加盟社は身内同様だが、クロス局の場合は、情報が他のキー局に筒抜けになる危険性のある他人行儀な局であった。加盟社のつきあいや相談事の対応は数ヶ月で慣れたが、クロス局は駆け引きや政治が絡むことがあり、気が抜けなかった。当時26局の内、クロス局は実に9局を数えた。昭和39年に東京12チャンネル(現テレビ東京)が開局して以来、東京には5つの民放があるのに、地方では多くの県がせいぜい第二局までしかなかった。例えば後年私が赴任する鹿児島テレビは、鹿児島の第二局で、このころはまだ第三、第四局がなかった。第一局の南日本放送はラジオの関係で早くからTBSオンリーであるため、そのころの鹿児島テレビは左ウチワで、フジと日テレと朝日の3キー局から、料金や視聴率の条件の良い番組だけを「選り取りネット」していた。鹿児島よりも産業や人口が多くて購買力の高い地方は、もっと争奪戦が激しかった。
 有力エリアの仙台、広島、新潟などはまだ2つしか局がなかった。仙台と新潟の二局目は日テレを退けてフジが獲得した。新潟の第二局は田中角栄に近かった。その権益を守るために、有力エリアなのに第三、第四の開局はずっと遅れたと言われる。フジ系になったとは言え、この第二局の高姿勢の要求を、フジは飲まざるを得ない立場だった。第二局のトップの気分次第では、日テレや朝日に丸ごと鞍替えされる危険性があったからである。
 広島は第一局の中国放送が最初からTBSだったので、第二局の広島テレビを日テレとフジが争いながら五分五分で番組を通していた。その広島にようやく第三・第四局が開局することになり、第三局はNET系の広島ホームテレビ、第四局がフジ系のテレビ新広島(TSS)となった。テレビ新広島の開局は50年の10月の予定で、その開局準備のため、元上司の村上専務が広島に赴任することになった。

7《田中角栄の大量免許政策》

 フジは開局当初、名古屋の東海テレビ、大阪の関西テレビ、福岡は九州朝日放送という基幹4局体制でスタートした。私が入社した年(1962年)に、名古屋の第三局として名古屋テレビが開局し、日テレが東海テビから出て行ったので、それ以後、東海テレビはフジの100%ネットになった。名古屋第一局の中部日本放送も第二局の東海テレビも、ともに中日新聞の資本の会社である。読売テレビが名古屋の新聞戦争を中日新聞と行う前に、東海テレビから出て行ったのは当然だった。北九州地区の争いも朝日、読売の全国新聞戦争が九州に及ぶに至って解決した。福岡の第四局福岡放送が読売系として開局するメドが立ち、西日本新聞をバックにするテレビ西日本が、新聞で争う読売・日テレとのネットからフジへのネット切り替えを希望したことと、朝日新聞も九州販売合戦を前にしてテレ朝と九州朝日放送のより強い連携を望んだからである。
 一事が万事で、遅れて開局したフジやテレ朝が待ち望んだのは、全国主要エリアで、自社に都合のよい地域に局ができることであった。右肩上がりの経済成長をバックに、全国に商品とCMを行き渡らせることを希望するスポンサーは増える一方だった。一方、各地の有力者や政治家の中でも「地方のテレビ局は何もしなくても儲かる」という夢のような話が広がった。したがって、各地でテレビの新局を申請する動きは後を絶たなかったが、平井郵政大臣の後任として郵政大臣になった若き田中角栄は、各地の調整を精力的に薦めた。彼は、昭和39年の東京12チャンネルの開局まで、民放36局、NHK7局の大量免許を断行した。世に言う「角栄の大量免許」である。このとき田中は、ナショナルスポンサーの全国商品の価格に上乗せされた広告費がキー局の収入になり、そのキー局から電波料という名目で地方に広告費が配分されて行く仕組みの神髄を見抜いたと言われている。免許の許認可権を持つ郵政省(現総務省)は、それから長く田中派およびその後継派閥の影響下に置かれた。テレビ新局の申請はその後も続き、需要に応じた許可をするには電波の周波数が足りなくなった。それまでテレビ用の周波数はVHFという帯域を使っていたが、それが不足したのである。そこでVHFより波長の短いUHF帯を使おうということになった。
 そのUHF局の大量免許、大量開局が行われたのが昭和44年から45年にかけてである。この機を逃さず、フジは全国ネットの体制を整えることができた。

6《NHKと民放のネットワーク》その3

 戦後の高度成長を背景に、民放の地上波テレビ局は、昭和から平成まで増え続け、現在は全国に127社を数える。続々と各地で開局する地方局を巡って、当初の日本テレビとTBSの東京キー2局による争奪戦は激烈を極めた。先発の日テレが優勢だと考え勝ちだが、2年遅れて開局したTBSの方が勝ったから面白い。日本のテレビの生みの親と言われた日テレの正力松太郎は、逆にラジオに興味が薄く、読売系はラジオへの進出が遅れた。逆にTBSはテレビが始まる前から各地の有力ラジオ局とネットワークを組んでいた。上記20社の中でも、5大基幹地区の名古屋の中部日本放送、大阪の朝日放送、福岡のRKB毎日、北海道の北海道放送は、既にラジオのネットワークをTBSと結んでいた。その後も仙台の東北放送、広島の中国放送、鹿児島の南日本放送など、TBSラジオのネットワークを形成していた有力な地方ラジオ局(多くは地方紙が出資していた)が各地のテレビ第一局の免許を獲得したため、昭和35年までに全国有力地区19局のネットワークを形成した。一方、日テレは非ラジオ系の読売、札幌に加えて福岡はテレビ西日本を押さえたが、名古屋の第ニ局の東海をフジと争い、残りは松山、高松、青森、高知、山口。九州各県にも出遅れて、全国ネットワークと呼ぶにはやや非力なネットワークだった。昭和34年に開局したテレ朝とフジが番組を地方にネットしようとしても、先発のローカル局は大阪3、名古屋2、福岡2、その他の都市9の16社しかなく、すべてが先発の日本テレビかTBSと手を組んでいた。しかしキー局が4つになったことでローカル側にも選択の余地が多くなり、利害関係が複雑になったことも事実である。その利害関係とは、露骨に言えばネット料金、つまりお金である。キー局がある番組を特定の地域に通したいとき、そのローカル局にどれだけの「家賃」を払うかであった。ローカルの時間枠は完全な売り手市場だったのである。

5《NHKと民放のネットワーク》その2

 民放の場合は、関東(東京・茨城・千葉・栃木・群馬・神奈川・埼玉)、東海(愛知・岐阜・三重)、関西(大阪・京都・奈良・兵庫・滋賀・和歌山)、北九州(福岡・佐賀)、岡山・高松地区と鳥取・島根地区以外は、基本的に各県別のエリアであり、別資本である。その上、キーもローカルも全部が一度にできたわけではなかった。
 ちなみに、最初に開局した日本テレビから6年後のフジテレビ開局までの20社を開局順に並べてみよう。

(1) 日本テレビ(東京)
(2) 東京放送(東京)
(3) 中部日本放送(名古屋)
(4) 大阪放送(大阪)
(5) 北海道放送(札幌)
(6) RKB毎日(福岡)
(7) 山陽放送(岡山)
(8) 西日本放送(高松)
(9) 読売テレビ(大阪)
(10) テレビ西日本(福岡)
(11) 信越放送(長野)
(12) 静岡放送(静岡)
(13) 関西テレビ(大阪)
(14) 北陸放送(金沢)
(15) 南海放送(松山)
(16) 新潟放送(新潟)
(17) 東海テレビ(名古屋)
(18) 長崎放送(長崎)
(19) テレビ朝日(東京)
(20) フジテレビ(東京)

 このリストにはさまざまなドラマがある。開局の免許取得をめぐっては、裏面で新聞社間の戦いがあったことは有名である。(4)番目の大阪放送は大阪で第一局(最初の局)であるが、この獲得ではライバルの朝日系と毎日系のラジオ局が争った。郵政省は「チャンネルプランでは大阪は一つなので、双方で一本化するよう」明治、ラジオの朝日放送新日本放送が合併して作ったテレビ局が大阪放送である。3年後に第二局目の免許を取った新日本放送が出て行き、毎日放送と改名して開局する。毎日が出て行った後の大阪放送は、晴れて朝日放送に社名を改め、ラジオの兼営局で存続した。この朝日放送がトウキョウのテレビ番組を毎日系の東京放送(TBS)からもらっていたから、腸捻転ネットと言われた。ローカルのマーケット規模から見て、(7) 岡山と(8) 高松の開局順が異常に早いのは、開局2年前の郵政大臣、香川出身の平井太郎が「テレビ周波数割当計画」(チャンネルプラン)を修正したためである。常識的には仙台や広島の方が大きいマーケットのはずだったが、役所に智恵者がいたようである。岡山と香川の間には海があるだけで他県のような山岳による電波障害がない。お互いの電波が漏れて、岡山・香川の沿岸部では見えてしまう。どうせ見えるのなら小豆島に相互利用できる中継等を建てて、2県2局の相互乗り入れエリアにしたら、仙台や広島より大きいマーケットになる。そこで岡山の山陽放送はTBSの番組を受け、高松の西日本放送日本テレビ系になった。この仕切りが今も続いて「岡・高地区」は例外的に2県5局のエリアになっている。これと似たエリアが中国山脈の日本海同士が横長くつながった鳥取・島根地区で、ここは2県合計してもマーケットが小さいという理由で、今でも2県で3波しかない。

4《NHKと民放のネットワーク》その1

 さてネットワーク。言葉は知っていたが、テニスのネットプレーしか知らなかった私にとって、新しい職場は知らないことだらけだった。今でもテレビ業界以外の方にネットワークを説明するのは難しい。テレビ局には放送法で決められた放送エリアがある。まずNHKを例にとって全国タイムとローカルタイムを説明しよう。NHKは1社で全国1エリアを与えられているが、その番組表は全国同じではない。東京(JOAK)や大阪(JOBK)が制作する主な番組は全国放送の枠(全国ネットタイム)で見ることができるが、ローカルニュースやローカル番組は、各地域のNHK(支局)の放送エリアによって随時放送内容を切り替えている。例えばニュース番組は最初に全国一斉のニュースを放送し、次にローカル枠に切り替えて、地元相手にローカルニュースを放送している。天気予報も必ず最初に全国の天気予報を放送する。その時間は東京のお天気キャスターが一律に全国ネット番組で説明する。次にローカルタイムに切り替わる。その瞬間から、香川県の天気予報は高松支局から支局のアナウンサーが説明しているのである。この順序が逆だと、地方の視聴者は自分の県の予報を見た後、チャンネルを切り替えるかも知れないので、天気予報という一つの番組の中でもローカルの予報は常に後になっている。高校野球の県予選は各県のNHK支局が自分のローカルエリアで中継しているので、香川の予選を東京で見ることはできない。ただ関東広域エリアの場合、AKは関東広域のローカル枠を編成する場合がある。そのときには東京の視聴者も神奈川県予選や埼玉県予選を見ることができる。甲子園が始まってからも、地上波を総合と教育の2チャンネル持っているために、地元出場校の試合が長引いても、別のニュースが飛び込んでも、平気で切り替え放送ができる。NHKは全国エリアの放送権を1社で持ち、複数のチャンネルを持っているため、全国放送とローカル放送の区分けを直前にでも変更できる。それによって料金問題は発生しないが、民法はそうはいかない。民法は日本中別会社だからである。

3《制作部門が切り離された》後編

 TBSには、フジとは違った歴史と背景があった。それは、当時のTBS編成部の外部プロへの番組依頼能力の高さであり、企画とスタッフを選択する能力の高さだった。その能力を代表したのが希代の編成マン・瀬川城一郎だった。テレビの影響で斜陽化した日本の映画会社も、その頃には積極的にテレビ番組を作るようになっていた。
 幾つかの映画会社がテレビ局の門を叩いたが、それを最初に歓迎し、一番よい企画とスタッフを押さえたのが、当時のTBS編成の瀬川副部長らだった。例えば大映テレビの「人間の条件」はTBSが即決で押さえた。新人・加藤剛はこの主役でスターになった。これがきっかけでTBSと大映の蜜月が始まった。この蜜月は「図々しい奴」「赤いダイヤ」とヒット番組を生み、さらに長いヒットシリーズ「ザ・ガードマン」や、山口百恵三浦友和の「赤いシリーズ」を生むに至る。どんなプロダクションもヒットする企画を幾つも持っているわけではない。TBSは上手に、早めに「エートコ取り」をしたのである。例えば東映は元来NET(今のANB)の有力株主であり、NETを中心に番組を作り始めたが、TBSは松下電器電通のバックアップのもと、東映京都で「水戸黄門」を成功させ、その「水戸黄門」スタッフを別会社に囲い込んで、「大岡越前」「江戸を斬る」のシリーズまで作り上げた。同時に東映大泉のアクション物の精鋭チームをも最初に押さえ、「キーハンター」路線を確立している。同じ時期に、博報堂木下恵介が出資して「木下恵介プロ」が誕生した。これにもいち早く手をさしのべたTBSは、数多い木下作品の中から、ホームコメディの傑作映画「破れ太鼓」を選び、これをテレビ用にスピンオフした。「おやじ太鼓」である。「破れ太鼓」は時代劇の大スター・阪東妻三郎が珍しく現代物の頑固親父を演じて、観客を大笑いさせたが、「おやじ太鼓」では時代劇の敵役で鳴らした進藤英太郎が茶の間のスターになた。つまりTBSは、プロダクションが外にできても、中から出て行っても、企画を判断し、選択する編成さえしっかりしていれば大丈夫だという考えだった。フジのやったことは似て非なる方向だった。制作を全部外に出しただけでなく、TBSの瀬川編成をようやく追いかけ始めたフジの編成部を一新(解体)させた。私が編成を出る一ヵ月前、私の入社当時の上司だった村上七郎専務が広島に去った。翌年秋に開局することになるテレビ新広島の副社長に就任したのである。
 その後まもなく「村上学校」の生徒仲間の日枝久村上光一らも次々に編成を去った。代わって編成部には各職場からエリートが集まった。しかし視聴率の低迷はさらに深刻になり、それは数年続いた。発注と受注の関係だけで他局を追い越す番組を編成できると、まさか彼らが本気で信じていたとは思えないのだが…。