2《制作部門が切り離された》前編
もう一つの出来事は、制作部門の切り離し(プロダクション化)である。ことの発端はTBSだった。TBSのドラマやドキュメンタリー制作者の何人かが、昭和44年秋、人事異動の辞令の受け取りを拒否、退社してプロダクションを結成する動きが表面化した。最初は組合闘争的な色彩を帯びて伝えられたが、会社との交渉の中で、TBS経営陣も彼らの動きを支援することになり、翌2月に「テレビマンユニオン」が発足した。会社側にしてみれば、番組現場から離れたがらない社員への選択肢として、独立したプロダクションが成功すれば色々プラスになる、と大人の対応をしたようである。同時に石川甫や石井ふく子ら「一生現場志望」の別グループを中心に、「東芝日曜劇場」や「ありがとう」などの番組枠を保証することで、ドラマ制作会社「テレパック」を発足させた。これに刺激を受けたのがフジの鹿内信隆社長だった。彼は米国の放送制度が、番組の放送をする局と制作をするプロダクションに分離されていることを聞きかじっていた。実は米国の制度は、テレビのためではなく、ハリウッド救済のための制度だった。テレビ局の番組制作機能はハリウッドによって制限されていたのであるが、鹿内社長にとっては、そんなことはどうでも良かった。TBSの制作分離は彼にとっては「経営合理化と組合対策の一石二鳥の名案」としか映らなかったのである。ごく少数の役員は時期尚早と慎重論を唱えたが、鶴の一声の前に多勢に無勢だった。この年の2月に「フジポニー」、7月に「ワイドプロモーション」、年末に「フジプロダクション」、翌年「新制作」という4つのプロダクションが発足し、総勢150人の制作部門の社員のほぼ全員が出向した。TBSの力のある一部プロデューサーが自ら出て行ったのに対し、フジの場合はまるで民族の強制移住のようにゴッソリ外部に移された。
鹿内構想によれば、編成から番組の発注を受けることになる4つのプロダクションは、競争の原理によって番組の質を向上させるはずだった。制作費もムダがなくなるはずだった。編成とプロダクションは発注・受注の関係だけでうまく行くはずだった。それはとんでもない間違いで、フジは長い冬の時代を迎えることになった。
1《フジに組合ができたころ》
入社12年で私は住み慣れた編成局を出て、ネットワーク局ネットワーク部に異動した。そのことを書く前に、12年の中で書き落としたことを2つだけ触れておきたい。1つはフジテレビ労働組合の結成である。当時のフジの社長は、病に倒れた水野成夫(初代社長)の後を継いだ鹿内信隆だった。彼はニッポン放送を設立する前には日経連にいた。終戦直後の嵐のような労働運動と対決してきただけあって、彼は組合不要論者だった。そのためフジには労組はなかった。深夜にわたる残業が続いても、休日が取れなくても、賃上げを交渉しようにも、その窓口は人事部の中間管理職が出てくるだけで、経営者は顔を見せず、条件を改善するパイプは無いに等しかった。「女子社員25歳定年制」という、信じられないような制度が存在していた、というだけで当時の労働条件が想像できよう。組合結成の準備の中心は制作や技術の若手だった。彼らに説得されて私も準備の仲間に入った。圧倒的な組織率で組合組織が成功したのは昭和41年5月のこと。初代委員長に岡田太郎、副委員長に嶋田親一というフジを代表するドラマ・ディレクターが選任された。私も初代執行委員会の末席を汚した。一年後の二代目執行部では一年先輩の日枝久(現フジテレビ会長)が書記長を務めた。組合幹部には配転や嫌がらせが色々あったが、執行部に入る人材には事欠かなかった。10年ほど経って、流石の会社も組合の若い人材を活用しなければ、会社の業績も上がらないことに、ようやく気づくようになった。平成18年5月、組合は結成40周年を迎え、台場の社屋でパーティーを開いた。私も出席した。
そこで日枝が挨拶をし、思い出を語り、最後に付け加えた。「古い人なら知っていることですが、私は職場結婚でした。その家内は、実は25歳でフジを定年になった最初の女子社員でした」。
12《加藤登紀子》後編
この年はフォークが次々とヒットした年で、彼女もシンガー・ソング・ライターの草分けの一人になった。翌年、また同じ場所で飲んでいて、彼女の新曲を聞いた。「帰りたい帰れない」という、都会に出て来た若者の望郷歌である。1番から3番まで、最後のフレーズがすべて「帰りたい 帰れない 帰りたい 帰れない」になっているのが女々しい感じがして、「3番目の最後だけ、『帰りたい 帰らない』にすれば?」と言ったら、彼女は「そうだね、開き直ってその方が良いね」と直したことがあった。最初に発売したレコードの歌詞カードは「帰れない」のままだが、次のLPから「帰らない」になって、コンサートでも「帰らない」で歌っている。
この70年の暮れは、あの森繁久彌の「知床旅情」を彼女が歌ったレコードが発売され、これが大ヒット。レコード大賞歌唱賞を再び受賞、紅白出場を果たした。
トコの母加藤淑子は今年93歳。終戦直後の瀋陽から女一人で3児を抱えつつ、1年2ヵ月かかって日本にたどり着いてから今日までの、波乱に飛んだ自伝を数年前に出版した。
- 作者: 加藤淑子
- 出版社/メーカー: 藤原書店
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「知床旅情」の大ヒットでトコは初めて大ホールのコンサートを開いた。71年3月31日の満員のサンケイホールのステージで、駆けつけた森繁久彌から花束を受け取る初々しい登紀子は忘れられない。以来今日まで、私は彼女のファンであり続けている。昔は夏になると日比谷の野外でビールを飲みながら彼女の歌を聞いた。最近の夏はオーチャード・ホールで歌うことが多い。今年のオーチャードでは、彼女は昭和歌謡曲の名曲を歌った。淡谷のり子や二葉あき子、裕次郎、ひばり、中島みゆき、尾崎豊・・・。中でも淡谷の「夜のプラットホーム」とひばりの「愛燦々」が絶品だった。何かの縁で2つの女系加藤家に出入りして来たが、2人は歌手のベクトルが異なると思い込んでいた。でもトコの「愛燦々」を聞いて初めて、二人の歌心の根っこは同じだったんだと思った。
年末恒例の新宿コマ地下のシアターアプルでの「ほろ酔いコンサート」も、昭和58年以来25回目になるが、コマの改築で今年で終了することになった。「ほろ酔いラストコンサート」は、今年12月26日から30日の5日間。一緒に聞きに行きませんか。
11《加藤登紀子》前編
「6羽のかもめ」の主題歌(「かもめ挽歌」)は加藤登紀子に頼んだ。千駄ヶ谷の自宅に押しかけ、作詞・作曲・歌唱のすべてを頼んだのである。番組が当たらなかったので、テレビの力でヒットすることもなかったが、それでも彼女は自分のLPの中に入れて、コンサートでときどき歌ってくれる。彼女との出会いはその5年前、私がスタ千のデスクになった2月の寒い夜だった。番組の縁ではなく、お酒の縁だった。場所は彼女の父母が経営する「新宿スンガリー」。そのころは新宿コマの前にあった。当時東京でズブロッカというポーランドの酒を置いてあるのはこの店だけだった。ズブという薬草が一本は言ったウオッカである。冷凍庫に入れても凍らずにネットリしたのを飲むと、甘い桜餅の匂いがして、つい飲み過ぎて足を取られる悪い酒だった。それを狙って、我々は毎夜「遅くから」入り浸っていた。そのズブロッカ以上に魅力的な女性がカウンターの向こうにいて、彼女がサッチャンこと加藤幸子。登紀子の姉さんだった。スタ千の専任Dの小村恒夫と二人でズブを飲んでサッチャンをかまって終電で帰宅するのが日課だった。そんな夜、終電を逃して、客のいない店に腰を据えたとき、ギターを持って入って来たのがサッチャンの妹のトコこと登紀子だった。彼女が東大生時代にシャンソンコンクールに優勝して、歌手を目指していることは知っていた。彼女は小村先輩とは顔見知りだったので、私にもすぐ打ち解け、「新しい歌聞いてくれる?」と、ギターを引いて歌ったのが「ひとり寝の子守唄」の原曲だった。曲はほとんど同じだったが、詞は今のと大きく違っていた。「どう?」と聞かれたので言った。「冬の夜、木賃宿みたいな所で男と体を温め合ったことは・・・ないだろ?」彼女は頷いた。「そんな時、男が冷えているのはひざ小僧」。「女は?」「女はケツッペタだな」。彼女はしばらく私を見つめて「分かった。作り直す」といって出て行った。翌日か翌々日の深夜、同じ場所に彼女がやってきた。彼女は新しい詞でもう一度歌った。それが現在の「ひとり寝」だった。前よりも数段よかった。翌3月、彼女はこの曲をレコーディングし、年末、この歌でレコード大賞歌唱賞を受賞する。
10《「6羽のかもめ」を後にして》
「信兵衛」が終わった昭和49年10月、土曜日の夜の10時から「6羽のかもめ」というスタジオドラマが始まった。原案・脚本は「信兵衛」の最初の2本を書いた倉本聰。かつて三百人の団員を擁した新劇の劇団「かもめ座」は、分裂を繰り返して今や6人。座長の淡島千景以下、加東大介、長門裕之、高橋英樹、夏純子、栗田ひろみの団員は、アパートを借りて共同生活を始める。という設定を面白がった私が、社内を説得して実現したようなものだった。一座の6分の1ということで、楽な気持ちで英樹がスタジオドラマに慣れてくれればという思いもあった。これが大こけにこけた。視聴率は最初から一桁、最後まで10%に届かなかった。皮肉なことに倉本聰夫人が新劇女優だったこともあり、どうも身内の話らしいとか、文学座の杉村春子がモデルではないかとか、タレント仲間やマネージャー仲間で話題になり、さらに倉本聰のシナリオがかもめたちの仕事先の一つであるテレビ局を風刺することもあって、業界内部では受けに受けたのである。低視聴率に加えて困ったことは、この企画の最初のウリが、レギュラーの老若男女6人が毎回一人ずつ主役を務める約束だった。ところが番組は生き物で、6人の脇のテレビ局制作部長を演じる中条静夫に人気が集まったり、喫茶店の経営者ミネさんを演じるディック・ミネの素人芝居が受けたりしたため、6人が目立たない回があったものだから、「約束が違う」と言う人もいた。その約束が足かせになったのか、倉本聰が途中で書けなくなったりした。でもよくしたもので、リリーフで何本か書いた弟子の金子成人が、今ではシナリオ作家協会の大御所になっている。この番組が始まって一ヵ月、私はネットワーク局ネットワーク部に異動になった。
倉本聰は早速その人事異動をネタにした話を書いた。
彼の本質は私小説作家であることに気づいたのはそのときだった。幸いなことに番組は私が異動になっても打ち切りにならず、予定通り半年続いた。赤坂のディスコを借り切っての打ち上げの時、スタッフたちは編成局から離れていた私を呼んでくれた。そのときディック・ミネさんと肩を組んで「旅姿三人男」を歌ったのが楽しい思い出である。
9《高橋英樹に始まって》その3
先生とは番組が終わっても色々お付き合いが続いた。
あるところで飲んだとき、先生がボソリとまた一言。「今、新聞の連載を頼まれて何を書こうかと考えてるんだ」。「先生、そろそろ捕物帳をお書きになったらどうですか。柴錬捕物帳と銘打って型破りなのを・・・」。当時「オール讀物」で柴錬立川文庫というシリーズを連載中だった先生は、黙って次を促した。「半七も人形佐吉も銭形平次も、古典的な捕物帳はみんな主人公が二枚目です。その常識を破って三枚目の目明かしとか、チンチクリンな面相だけど憎めないキャラクターの捕り物も、テレビ的で面白いんですがねえ」。「面白いな。それやってみるか・・・」で「岡っ引きどぶ」が生まれた。
私が編成に再度カムバックした80年代、「時代劇スペシャル」という毎週単発2時間ものの時代劇シリーズを編成したとき、この原作は田中邦衛が演じた。
ときどき石神井の私の団地に電話がかかってきた。
ある夏、軽井沢からの電話だった。「コマーシャルに出ろと行って来たのがいるんだが・・・どう思うかね」「どこのCMですか?」「日本酒のメーカーで、確か白鷹とか言っていたな」。辛口の酒である。「どんな芝居をするんですか?」「何もしなくていい、と言うんだ」「何も?」「ウン、酒は白鷹、男は辛口・・・だったかな、逆かな、酒は辛口、男は白鷹だったか、キャッチフレーズがあって、俺の顔だけ写すらしい」。何もしない先生のへの字の口許と辛口がダブって思わず笑った。「いいじゃないですか。ぴったしですよ。やった方がいいですよ」「そうか、そう思うか、じゃやろう」と言った電話だった。
その先生も78年、61歳の若さで亡くなった。
高橋英樹と組んだ数年間で、私的にはもっとも愛着のある番組が「ぶらり信兵衛・道場破り」である。山本周五郎に「人情裏長屋」という好短編がある。主人公は木挽町の十六店という裏長屋に住む松村信兵衛。彼は近くの丸源という粗末な居酒屋で毎晩飲んでいる。そのくせ金に困った様子はない。それどころか長屋の住人が困っていると、内緒で大家に家賃を払いに行く。長屋の隣部屋は夜鳴きソバ屋の重助老人と18歳の孫娘のおぶんちゃんがいて、3年前に信兵衛が引っ越して来た15歳の時から炊事洗濯を引き受けている。実は彼の商売は道場破りである。まとまった金が必要になると、繁盛している道場を探して試合を申し込む。最初に2、3人片付けて、師範代を破り、道場主を追い詰める。相手が「参った」という直前に、こちらが「参った」と手をつき、道場主を誉め上げ、「また教わりに来る」と言えば、たいていの道場主は奥へ招き入れてお金を差し出す。高橋英樹は武張った面と明るいコミックな面を持つキャラクターだったので、この役はぴったりだった。周五郎の著作権を代行管理していた新潮社の新田部長にお願いし、この短編の設定でレギュラー人物を配し、毎回のエピソードは周五郎全集のすべての短編からアレンジするという破格の許可をいただいた。最初は「人情裏長屋」のエピソードでと、気鋭の脚本家倉本聰に以来した。彼とはこの出会いが最初である。鶴坊という子供のからんだエピソードは1回でまとめ切れず、1週、2週を前後編でスタートした。この番組も好評で、早い回から20%を超えたし、今までの8時台から放送枠を9時台に下げたために、ナイターシーズンも休まず続けることができ、1年間続いた。このシリーズで私がひそかに自慢できることがある。「信兵衛シリーズ」全50話すべて、主人公が人を斬ったことも、その周辺で人が斬られたこともなかったことである。これは時代劇として初めてではないだろうか。
8《高橋英樹に始まって》その2
半年の休みはすぐ終わる。次の企画に困った。適当な原作物がみつからない。ふと思いついたのが山本周五郎の「赤ひげ診療譚」である。あの赤ひげ先生が若い素浪人だったらどうだろう。小藩を脱藩して長崎で蘭学を学び、小石川の養生所ではなく、江戸の裏長屋で庶民の病気を診る。子供をからませるのも悪くない。しかし、オリジナル設定だけで毎回の話を脚本家に考えてもらうのは、やはり心配である。そこで昔お世話になった剣豪作家・柴田錬三郎先生にご相談することにした。
その数年前、先生の「眠狂四郎」を平幹二郎の主演で放送したことがあった。演出は五社英雄。それが縁で何度かお目にかかっていた。ある晩、五社と私が先生から赤坂の料亭に突然招待され、招待理由を説明されたことがある。「いやあ、テレビというものを俺は少し馬鹿にしていたんじゃが、実はナ。テレビになったら『眠狂四郎』の文庫本が売れ出してな。原作料もらって、その上に印税までもらっちゃ悪いんで、一杯飲んでくれや」。
そんなことで、柴錬先生はテレビというメディアに興味を持ち始めていると睨んだ。先生の指定で、日比谷の喫茶店で待ち合わせをした。「何だね」という先生にいきなり頭を下げた。「先生に書いていただきたい小説があるんです」と雑誌社の編集者のような口を利いた。「もちろん娯楽時代小説です。こちらは出版社や雑誌社でないので、その話を連載したり出版することはできないんですが、先生の原作ということで番組にしたいんです。当然原作料を支払います。原作がテレビに先行して発表されてもいいし、番組と同時進行で発表されても良いんです」。先生はチラと興味を示した。私は高橋英樹のことを説明し、「蘭学素養の素浪人」という設定を説明した。さらに生意気にも大先輩に向かって「丹下左膳」は林不忘の原作よりも大河内伝次郎の映画で人気になり、「退屈男」も右太衛門の映画のおかげで佐々木味津三の本が売れたんだと講釈したのである。「あのころの映画(のメディア力)は今のテレビです」。
それは「眠狂四郎」で先生も実感したはずだった。
で、「設定はそういうことで、お話は先生にお任せします。それからタイトルもぜひとも先生の方で」と拝み倒した。先生は「来月か再来月か、創刊する週刊誌から連載の話がきている。それに連載しよう」と快諾され、数日後にタイトルを戴いた。それが「おらんだ左門事件帖」。そのときの先生のノートには、タイトル案が二百ばかりあった。驚く私に「こんなの大した数じゃない。『眠狂四郎』のときは新潮社にしつこい担当者がおってな。二千案考えさせられた。この10倍じゃよ」と澄ましていた。ところが表紙に「おらんだ左門事件帖」と刷り込んだ企画書を営業に廻した途端にクレームが来た。「サモン」という薬があるのを忘れていたのである。その製薬会社のライバル社がスポンサーに内定していた。
先生にまた頭を下げた。への字に結んでいた口を開いて先生は言った。「しょうがない。左近にしろ」。
かくしてまだ出版されていないのに、「原作 柴田錬三郎」をトップタイトルに入れて、「おらんだ左近事件帖」が71年10月から始まった。放送は好評だった。「剣豪作家らしい剣豪姿で」と柴錬先生のゲスト出演を頼んだら「芦田と一緒なら出てもいいな」と言われた。
芦田伸介と先生は同じ1917年生まれで、二人サシで徹夜するほどの博打親友だった。そこで二人のバクチ話を考えた。時代劇じゃあルーレットは無理。カードもウンスン歌留多は視聴者に分かりづらい。花札もサイコロもやくざっぽくて、主人公にもゲストにもそぐわないということで競馬になった。もちろん今の競馬レースが日本に来たのは明治になってからである。江戸時代らしく二頭の「競べ馬」で話を作った。そのときの演技を褒めたら、表情も変えずにボソリと言った。
「俺は文士劇ではずっと良い役をやって来たんだ」。
そうかもしれない。当時の先生は直木賞選考委員の筆頭格で、文壇の雄であった。