2009-09-01から1ヶ月間の記事一覧

7《田中角栄の大量免許政策》

フジは開局当初、名古屋の東海テレビ、大阪の関西テレビ、福岡は九州朝日放送という基幹4局体制でスタートした。私が入社した年(1962年)に、名古屋の第三局として名古屋テレビが開局し、日テレが東海テビから出て行ったので、それ以後、東海テレビはフジ…

6《NHKと民放のネットワーク》その3

戦後の高度成長を背景に、民放の地上波テレビ局は、昭和から平成まで増え続け、現在は全国に127社を数える。続々と各地で開局する地方局を巡って、当初の日本テレビとTBSの東京キー2局による争奪戦は激烈を極めた。先発の日テレが優勢だと考え勝ちだが、2…

5《NHKと民放のネットワーク》その2

民放の場合は、関東(東京・茨城・千葉・栃木・群馬・神奈川・埼玉)、東海(愛知・岐阜・三重)、関西(大阪・京都・奈良・兵庫・滋賀・和歌山)、北九州(福岡・佐賀)、岡山・高松地区と鳥取・島根地区以外は、基本的に各県別のエリアであり、別資本であ…

4《NHKと民放のネットワーク》その1

さてネットワーク。言葉は知っていたが、テニスのネットプレーしか知らなかった私にとって、新しい職場は知らないことだらけだった。今でもテレビ業界以外の方にネットワークを説明するのは難しい。テレビ局には放送法で決められた放送エリアがある。まずNHK…

3《制作部門が切り離された》後編

TBSには、フジとは違った歴史と背景があった。それは、当時のTBS編成部の外部プロへの番組依頼能力の高さであり、企画とスタッフを選択する能力の高さだった。その能力を代表したのが希代の編成マン・瀬川城一郎だった。テレビの影響で斜陽化した日本の映画…

2《制作部門が切り離された》前編

もう一つの出来事は、制作部門の切り離し(プロダクション化)である。ことの発端はTBSだった。TBSのドラマやドキュメンタリー制作者の何人かが、昭和44年秋、人事異動の辞令の受け取りを拒否、退社してプロダクションを結成する動きが表面化した。最初は組…

1《フジに組合ができたころ》

入社12年で私は住み慣れた編成局を出て、ネットワーク局ネットワーク部に異動した。そのことを書く前に、12年の中で書き落としたことを2つだけ触れておきたい。1つはフジテレビ労働組合の結成である。当時のフジの社長は、病に倒れた水野成夫(初代社長)…