3《制作部門が切り離された》後編
TBSには、フジとは違った歴史と背景があった。それは、当時のTBS編成部の外部プロへの番組依頼能力の高さであり、企画とスタッフを選択する能力の高さだった。その能力を代表したのが希代の編成マン・瀬川城一郎だった。テレビの影響で斜陽化した日本の映画会社も、その頃には積極的にテレビ番組を作るようになっていた。
幾つかの映画会社がテレビ局の門を叩いたが、それを最初に歓迎し、一番よい企画とスタッフを押さえたのが、当時のTBS編成の瀬川副部長らだった。例えば大映テレビの「人間の条件」はTBSが即決で押さえた。新人・加藤剛はこの主役でスターになった。これがきっかけでTBSと大映の蜜月が始まった。この蜜月は「図々しい奴」「赤いダイヤ」とヒット番組を生み、さらに長いヒットシリーズ「ザ・ガードマン」や、山口百恵・三浦友和の「赤いシリーズ」を生むに至る。どんなプロダクションもヒットする企画を幾つも持っているわけではない。TBSは上手に、早めに「エートコ取り」をしたのである。例えば東映は元来NET(今のANB)の有力株主であり、NETを中心に番組を作り始めたが、TBSは松下電器と電通のバックアップのもと、東映京都で「水戸黄門」を成功させ、その「水戸黄門」スタッフを別会社に囲い込んで、「大岡越前」「江戸を斬る」のシリーズまで作り上げた。同時に東映大泉のアクション物の精鋭チームをも最初に押さえ、「キーハンター」路線を確立している。同じ時期に、博報堂と木下恵介が出資して「木下恵介プロ」が誕生した。これにもいち早く手をさしのべたTBSは、数多い木下作品の中から、ホームコメディの傑作映画「破れ太鼓」を選び、これをテレビ用にスピンオフした。「おやじ太鼓」である。「破れ太鼓」は時代劇の大スター・阪東妻三郎が珍しく現代物の頑固親父を演じて、観客を大笑いさせたが、「おやじ太鼓」では時代劇の敵役で鳴らした進藤英太郎が茶の間のスターになた。つまりTBSは、プロダクションが外にできても、中から出て行っても、企画を判断し、選択する編成さえしっかりしていれば大丈夫だという考えだった。フジのやったことは似て非なる方向だった。制作を全部外に出しただけでなく、TBSの瀬川編成をようやく追いかけ始めたフジの編成部を一新(解体)させた。私が編成を出る一ヵ月前、私の入社当時の上司だった村上七郎専務が広島に去った。翌年秋に開局することになるテレビ新広島の副社長に就任したのである。
その後まもなく「村上学校」の生徒仲間の日枝久や村上光一らも次々に編成を去った。代わって編成部には各職場からエリートが集まった。しかし視聴率の低迷はさらに深刻になり、それは数年続いた。発注と受注の関係だけで他局を追い越す番組を編成できると、まさか彼らが本気で信じていたとは思えないのだが…。