14《制作現場に復帰》

 この仕事が刺激になって、制作現場への思いが高まった。フジの番組は相変わらず不審を極めていた。ネットワークの業務のかたわら、無意識のうちに「ホームドラマの原点」について考えていた。日本のホームドラマ小津安二郎らの松竹大船から始まった。米国のホームドラマの原点は何かと考えているうちに、原点は西部開拓史ではないか、と思うようになった。ヒントは当時テレビで人気のあった「大草原の小さな家」である。男たちが外敵と戦い、土地を耕し、獣を狩る間に、主婦は丸太小屋を守り、料理を作り、子供を育てた。その歴史が女性の少ないフロンティアで主婦の立場を強めた。家の外は美しい自然であると同時に、危険が一杯の自然である。
 危険は嵐や吹雪などの自然だけではない。フロンティアでは毒蛇もいれば野獣もいる。私が住んでいた団地では、夕暮れになると、周りの上下階の窓が開いて、外で遊ぶ子供たちを呼ぶ母親たちの声が響く。「◯◯ちゃーん、ご飯ですよー」。叫ぶ母親も叫ばれる子供も危険を感じていないが、西部開拓史では子供の返事がないときは、生命の危険を意味した。そのことに気づいて、日本でも自然の中で子供と親が生活しつつ、知恵と技術を学んで行くホームドラマができないか、と考えた。フィルムよりもVTRのドラマにしたい。毎週役者とスタッフが往復できる便利な場所は? 中央高速で2時間もあれば、富士の裾野がある。例えば青木ヶ原に、都会を捨てた一家が丸太小屋を建設するところからドラマを始める。もう一度現場に復帰したら、これをやりたいと思った。
 54年が明けて片岡総務局長に呼ばれた。「制作に行ってくれ」と言う。「どこのプロダクションですか」
 すでに4プロダクションのうち「フジポニー」と「ワイドプロ」は合併してフジ制作になり、「新制作」はフジプロに吸収されていた。「フジプロとフジ制作の2つの会社の企画デスクを兼務しろ」と事もなげに言って付け加えた。「実は3月から、俺が両方の会社の社長を兼務するんだ」。後で考えれば、それはフジテレビの大激変の前触れだったのだが、そこまでは頭が回らなかった。
 昭和54年3月、私はその2社に出向した。