12《ネットワークも悪くない》

 ネットワーク部には昭和49年10月から54年の2月末まで丸4年4ヵ月いた。忙しかった昭和50年が終わると、すっかり慣れた職場になり、系列各社の東京や本社に友人も増え、付き合いも増えた。
 各社に招かれ、出張する時には、その県の歴史や風土を予習したり、県出身の古今の有名人を調べて出掛けた。地方局の経営者はどうしても年長者が多いし、マスコミだけに文化人、教養人が多い。美術に高い見識を持つ人もおり、郷土史の専門家もいた。そうした人たちと話を合わせるには、予習するしかなかった。そうした機会に親しくなる人も増え、長いお付き合いになった。訪問先の名産品や食の旬を知るのも勉強である。ローカルから見れば全国にPRしたいものばかりである。その相談を受けたり、知恵を出し合ったり、編成とは違った意味で、退屈することはなかった。4年と数ヵ月はあっと言う間に過ぎてしまった。訪問先で地元の優れた芸術家と知り合えたことも忘れ難い。地方局の報道部長や制作部長やプロデューサーは、当然ながら地元に深い人脈を持っている。イチゲンで訪問するより、彼らに紹介してもらう方が良いのは言うまでもない。焼き物が好きな私はサガテレビのお陰で唐津中里太郎右衛門・隆兄弟をはじめ、有田の今右衛門や伊万里、黒牟田の何人かの作家を知った。福島テレビでは本郷焼を、愛媛放送では砥部焼の有望作家と知り合った。岡山放送では山本出という備前焼の若手作家を紹介された。私より8歳年下の彼は、翌年日本工芸展の奨励賞を受賞する。その縁で父君の山本陶秀(1906〜94)と知り合うことができた。素晴らしい人柄と技術に魅せられて通ううちに、焼き物好きな浜美枝や岡田太郎・吉永小百合夫妻を山本家に案内することになる。山本陶秀が重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けたのは、知り合って10年以上経った昭和62年のことだった。