11《広島に神風吹く。カープの初優勝》

 昭和50年の広島は暑かった。新社屋ができるまでの仮事務所は国泰寺にあった。大部屋は新人を含めた社員で溢れ、みんなランニングシャツで仕事をしていた。
 そのころ古葉監督率いる山本浩二以下の赤ヘル軍団広島東洋カープは、絶好調でペナントレースを走っていた。カープはまだ優勝したことがなかったが、街では「ひょっとすると?」が段々「絶対優勝や!」に変化して来た。10月1日のTSS開局を過ぎても、広島市民の関心はカープ優勝だけだった。どの飲食店でも「今夜のカープ速報」を客に知らせていた。TSSも便乗した。
 開局してすぐ「もしもカープが優勝したら?」というテーマのCM参加を商店街に呼びかけたら、これが売れた。「ウチのラーメン半額にします」から「8割引や9割引」の商店まで出現し、リレーで毎日スポットを買ってくれた。そして10月15日にカープは球団創立26年目に初優勝した。広島は町中大騒ぎになった。
 さあ日本シリーズである。このとき、TSSに神風が吹いた。パ・リーグの優勝が阪急ブレーブスに決まったのである。ブレーブスの親会社は阪急電鉄で、フジ系の関西テレビの大株主である。阪急から西宮からの試合は関西テレビが独占中継する。その試合は広島ではTSSのチャンネルでなければ見ることができない。
 これを神風と言わずに何と言おうか。
 開局を前にした第三、第四局の泣き所は、UHFの電波が受けられない旧式の受像機が多いことだった。家庭では3000円払ってフィルターを付けたり、マンションでは共同アンテナの改修が必要だった。10月25日から日本シリーズの第一戦、第二戦は西宮から関西テレビ〜TSSの独占放送。さらに試合の展開で第六、第七戦もTSSと発表されるや、電機屋にパニックが起きた。
 UHFを見ることのできる新型受像機も売れたし、旧式に付けるフィルターも売れに売れた。結局、シリーズは阪急の4勝2引き分けで終わったが、TSSは6試合のうち3試合放送できた。VHF局だけでなく、UHF局も見える受像機が普及できたことは大きかった。