7《田中角栄の大量免許政策》

 フジは開局当初、名古屋の東海テレビ、大阪の関西テレビ、福岡は九州朝日放送という基幹4局体制でスタートした。私が入社した年(1962年)に、名古屋の第三局として名古屋テレビが開局し、日テレが東海テビから出て行ったので、それ以後、東海テレビはフジの100%ネットになった。名古屋第一局の中部日本放送も第二局の東海テレビも、ともに中日新聞の資本の会社である。読売テレビが名古屋の新聞戦争を中日新聞と行う前に、東海テレビから出て行ったのは当然だった。北九州地区の争いも朝日、読売の全国新聞戦争が九州に及ぶに至って解決した。福岡の第四局福岡放送が読売系として開局するメドが立ち、西日本新聞をバックにするテレビ西日本が、新聞で争う読売・日テレとのネットからフジへのネット切り替えを希望したことと、朝日新聞も九州販売合戦を前にしてテレ朝と九州朝日放送のより強い連携を望んだからである。
 一事が万事で、遅れて開局したフジやテレ朝が待ち望んだのは、全国主要エリアで、自社に都合のよい地域に局ができることであった。右肩上がりの経済成長をバックに、全国に商品とCMを行き渡らせることを希望するスポンサーは増える一方だった。一方、各地の有力者や政治家の中でも「地方のテレビ局は何もしなくても儲かる」という夢のような話が広がった。したがって、各地でテレビの新局を申請する動きは後を絶たなかったが、平井郵政大臣の後任として郵政大臣になった若き田中角栄は、各地の調整を精力的に薦めた。彼は、昭和39年の東京12チャンネルの開局まで、民放36局、NHK7局の大量免許を断行した。世に言う「角栄の大量免許」である。このとき田中は、ナショナルスポンサーの全国商品の価格に上乗せされた広告費がキー局の収入になり、そのキー局から電波料という名目で地方に広告費が配分されて行く仕組みの神髄を見抜いたと言われている。免許の許認可権を持つ郵政省(現総務省)は、それから長く田中派およびその後継派閥の影響下に置かれた。テレビ新局の申請はその後も続き、需要に応じた許可をするには電波の周波数が足りなくなった。それまでテレビ用の周波数はVHFという帯域を使っていたが、それが不足したのである。そこでVHFより波長の短いUHF帯を使おうということになった。
 そのUHF局の大量免許、大量開局が行われたのが昭和44年から45年にかけてである。この機を逃さず、フジは全国ネットの体制を整えることができた。