8《ネットワークの御用聞き》

 私がネットワーク局のネットワーク部に配属されたのは、その全国ネット体制の仕上げの時期だった。
 ネットワーク局には、個々の番組のネット交渉、連絡をする部署や、個々の番組の料金を交渉し、計算し、配分する料金班や、番組を全国のローカル局に売り歩く番組販売の部署などがあった。私の最初の部署はネットワーク部の渉外班。何をするんですかと聞いたら、「フジの系列局のための御用聞きだ」と言われた。フジ系列はフジ・ネットワーク・システムを略してFNSと言う。当時のFNSはフジを含めて「全国27局体制」を豪語していた。まずそのフジ以外の26社の名前とアルファベットの略称を一夜漬けで覚えた。略称が厄介で、ルールのない符丁だった。北海道文化放送UHBテレビ宮崎UMK福島テレビFTV福井テレビはFTB。山形テレビがYTSでテレビ山口TYS仙台放送OXは、仙台名物の牛タンから由来したとしか思えなかった。こうした符丁を覚えなければ電話も取れない。
 御用聞きの手初めは東京支社廻りである。どの業界もそうだろうが、支社の場所と支社長以下の社員の顔と名前を覚えるのも、一度に26社はきつかった。系列局といっても色々ある。まずフジだけをキー局にしている加盟社の局と、クロス局といって他のキー局の番組も受けている局があった。クロス局は東京のキー局を1つに決めずに、他のキー局とも等距離外交をする局のことである。キー局から見れば加盟社は身内同様だが、クロス局の場合は、情報が他のキー局に筒抜けになる危険性のある他人行儀な局であった。加盟社のつきあいや相談事の対応は数ヶ月で慣れたが、クロス局は駆け引きや政治が絡むことがあり、気が抜けなかった。当時26局の内、クロス局は実に9局を数えた。昭和39年に東京12チャンネル(現テレビ東京)が開局して以来、東京には5つの民放があるのに、地方では多くの県がせいぜい第二局までしかなかった。例えば後年私が赴任する鹿児島テレビは、鹿児島の第二局で、このころはまだ第三、第四局がなかった。第一局の南日本放送はラジオの関係で早くからTBSオンリーであるため、そのころの鹿児島テレビは左ウチワで、フジと日テレと朝日の3キー局から、料金や視聴率の条件の良い番組だけを「選り取りネット」していた。鹿児島よりも産業や人口が多くて購買力の高い地方は、もっと争奪戦が激しかった。
 有力エリアの仙台、広島、新潟などはまだ2つしか局がなかった。仙台と新潟の二局目は日テレを退けてフジが獲得した。新潟の第二局は田中角栄に近かった。その権益を守るために、有力エリアなのに第三、第四の開局はずっと遅れたと言われる。フジ系になったとは言え、この第二局の高姿勢の要求を、フジは飲まざるを得ない立場だった。第二局のトップの気分次第では、日テレや朝日に丸ごと鞍替えされる危険性があったからである。
 広島は第一局の中国放送が最初からTBSだったので、第二局の広島テレビを日テレとフジが争いながら五分五分で番組を通していた。その広島にようやく第三・第四局が開局することになり、第三局はNET系の広島ホームテレビ、第四局がフジ系のテレビ新広島(TSS)となった。テレビ新広島の開局は50年の10月の予定で、その開局準備のため、元上司の村上専務が広島に赴任することになった。