6《NHKと民放のネットワーク》その3
戦後の高度成長を背景に、民放の地上波テレビ局は、昭和から平成まで増え続け、現在は全国に127社を数える。続々と各地で開局する地方局を巡って、当初の日本テレビとTBSの東京キー2局による争奪戦は激烈を極めた。先発の日テレが優勢だと考え勝ちだが、2年遅れて開局したTBSの方が勝ったから面白い。日本のテレビの生みの親と言われた日テレの正力松太郎は、逆にラジオに興味が薄く、読売系はラジオへの進出が遅れた。逆にTBSはテレビが始まる前から各地の有力ラジオ局とネットワークを組んでいた。上記20社の中でも、5大基幹地区の名古屋の中部日本放送、大阪の朝日放送、福岡のRKB毎日、北海道の北海道放送は、既にラジオのネットワークをTBSと結んでいた。その後も仙台の東北放送、広島の中国放送、鹿児島の南日本放送など、TBSラジオのネットワークを形成していた有力な地方ラジオ局(多くは地方紙が出資していた)が各地のテレビ第一局の免許を獲得したため、昭和35年までに全国有力地区19局のネットワークを形成した。一方、日テレは非ラジオ系の読売、札幌に加えて福岡はテレビ西日本を押さえたが、名古屋の第ニ局の東海をフジと争い、残りは松山、高松、青森、高知、山口。九州各県にも出遅れて、全国ネットワークと呼ぶにはやや非力なネットワークだった。昭和34年に開局したテレ朝とフジが番組を地方にネットしようとしても、先発のローカル局は大阪3、名古屋2、福岡2、その他の都市9の16社しかなく、すべてが先発の日本テレビかTBSと手を組んでいた。しかしキー局が4つになったことでローカル側にも選択の余地が多くなり、利害関係が複雑になったことも事実である。その利害関係とは、露骨に言えばネット料金、つまりお金である。キー局がある番組を特定の地域に通したいとき、そのローカル局にどれだけの「家賃」を払うかであった。ローカルの時間枠は完全な売り手市場だったのである。