7《幾つかの番組たち》〜『ママとあそぼう! ピンポンパン』編〜

 幼児番組『ママとあそぼう! ピンポンパン』も忘れ難い。この番組は『ゲゲゲ』の1年ちょっと前の昭和41(1966)年10月にモノクロでスタートした。当時、朝の8時台には『おはなはん』を始めとするNHKの朝ドラが視聴率を独占。フジの営業もこの時間は売りあぐみ、したがって編成も制作費のかけようがなかった。上司から「1日の制作費3万円で何かできないか」と頼まれ、「紙芝居でもやるんですね」と答えたことがある。
 でも、サラリーマンは出勤途上。主婦の大部分はドラマを見ている。狙いは幼稚園前の幼児を持つ若い主婦の家庭。2〜3%取れれば御の字と開き直って幼児番組を編成した。そのころタイトルの運勢学のようなものに凝っている人がいて、「ん」がつくタイトルがヒットすると言う。そう言われれば『鉄腕アトム』『鉄人28号』『ちびっこのどじまん』『三匹の侍』他局でも『おはなはん』『事件記者』『お笑い三人組』『隠密剣士』『新撰組始末記』『底抜け脱線ゲーム』『七人の孫』『七人の刑事』『ザ・ガードマン』『キーハンター』なるほどねぇ。さらにある薬品会社の宣伝部の方から、新薬のネーミングはパピプペポをつけると売れると聞いた。パンシロン、パンビタン、リポビタンD、アスパラC、ポポンS……。なるほどなるほど。そのパ行にンをつけて撥ねる語感で『ピンポンパン』とした。
 演出は制作のベテラン小沢PDにお願いした。お姉さんは若手アナウンサーの中からふくよかで笑顔が優しい渡辺直子さんを起用。要するに幼稚園の優しい女先生イメージだった。制作費の関係で新しい歌は作らず、既成の童謡と人形劇が中心だった。シンペイちゃんこと坂本新兵、カッパのカータン(声・大竹宏)、体操の金森勢おにいさんなどがレギュラーだった。長く続いたのは幼児を持つ若い主婦に着目したスポンサーのおかげである。
 4年後、私が「この番組で新しい童謡を作ってみよう」と思ったのは、2歳になった長女の誕生日に童謡のレコードでもと、レコード店に入ったせいである。テレビの現場にいると大抵のレコードはレコード会社が持って来る試聴盤で間に合う。身銭を切ってレコードを買う習慣を忘れていた自分が、わが娘のためにレコード店に入ったことに気づき、これが「親ばか消費」だと知った。しかも店頭には、私のイメージした『月の砂漠』や『七つの子』のような童謡はなくて、アニメ番組の主題歌が制圧していた。で、私の住んでいた団地で観察すると、幼児たちが歌っているのはアニメの主題歌かCMソングだった。そのくせオリコンのベスト100では3月前後には『ひな祭り』、5月になると『鯉のぼり』の童謡が上位に入ってくる。ひとたび定番となった童謡はアニメやCMに押されながらも、私の幼少時のものがまだしぶとく生きていた。3ヶ月か半年で忘れられる無数の歌謡曲やポップスよりもはるかに長命だった。今でこそ少子化と言っているが、当時は1年に200万人だったか子供が生まれた。すると400万人の「親ばか」ができて、「孫ばか」が800万人できる。ヤマハのエレクトーンが売れ、音楽教室が流行した時代だったので、幼児が歌えて親が目くじらを立てない新しい子供の歌のマーケットがありそうに見えた。
 そのためにはこの番組に音楽番組の才能を投入するしかない。そこで当時『ミュージック・フェア』のPDで肩で風を切っていた石黒さんに「幼児番組やんない?」と言ったら、またもや彼はマッツァオになった。
 しかし、彼は私に説得されるや、素晴らしい乗りの良さをみせた。構成脚本については、当時『ひょっこりひょうたん島』を書いていた井上ひさし、山本護久の両氏を口説こうということになって、NHKのスタジオまで二人で押しかけた。両先生とも「テレビ版赤い鳥運動」の趣旨に乗ってくれたが、井上ひさしさんは舞台脚本を抱えているので、最初の会議に参加するだけということで、相棒の山本護久さんをメイン作家に推薦してくれた。
 最初の会議では、テレビ時代の2歳〜4歳までの幼児のリズム感や音感は我々世代より優れており、ストーリーが分からなくても敏感に反応するということで意見が一致した。だからCMやアニメの主題歌で活躍している才能を作詞・作曲でブッキングするのが効果的ではないかという結論になった。私はひさしさんの言葉遊びセンスを活かした作詞を期待したが、戯曲の出世作道元の冒険」を執筆中だった彼は巧みに逃げて、作詞の新才能として阿久悠さんを大推薦した。阿久さんは前年の『ざんげの値打ちもない』や『白い蝶のサンバ』で注目された。加えてこの年、尾崎紀世彦が歌った『また逢う日まで』で、ひさしさんは阿久さんの天分を絶賛したのである。ひさしさんの絶賛から半年後に、この歌はレコード大賞に輝いた。作曲はCMソングの世界から選んだ。「レナウン・イエイエ」の小林亜星さんに票が集まり、この新コンビで体操の歌をお願いすることにした。のちの『北の宿から』のゴールデン・コンビの誕生である。『寺内貫太郎一家』で人気者になる亜星さんも当時は一般から無名だった。
 ひさしさんはテレビ童謡のいくつかの路線を提案してくれた。(1)歯磨きとかお風呂など、しつけの歌路線、(2)年中行事や旗日の歌路線、(3)テレビ主題歌やCMソングのパロディ路線、(4)ペットや乗り物路線、(5)昔の赤い鳥的な叙情詩路線など。『ピンポンパン体操』は(3)の路線を阿久さんが選び、亜星さんがCMソングのサワリを入れながら調子の良い曲になった。その体操の振り付けに、ドリフターズのダンスの振り付け師・西条満さんを選んだのは石黒PDだった。
 新装開店の『ママとあそぼう! ピンポンパン』は昭和46(1971)年10月に放送を始めていきなり大ヒット。年末には夕方の再放送枠で視聴率が2桁になり、「体操」のレコードは次の一年間で150万枚を突破した。
 これは2年後に「およげ! たいやきくん」によって破られるが、子供の歌としては「黒猫のタンゴ』以来のミリオンセラーだった。二代目お姉さんになった石毛恭子さんのスポーティなキャラクターと歌唱力も大好評で、彼女が歌ったしつけ路線の「おふろのかぞえうた」(阿久悠小林亜星)、「パジャママンのうた」(阿久悠森田公一)、「かたづけサッサッサッ』(橋本淳・小林亜星)などや、ペット路線の「ピンクのバニー」(山元護久服部克久)もそれぞれ30万枚のヒットになった。
 阿久さんの凄さの一つは「子供をつかむコツ」をここで会得したことだろう。そのセンスがすぐ後でフィンガー5ピンクレディーに活かされた。この原稿を書いた直後の2007年8月、彼の訃報が届いた。私と同じ年である。心からご冥福をお祈りしたい。