8《高橋英樹に始まって》その2

 半年の休みはすぐ終わる。次の企画に困った。適当な原作物がみつからない。ふと思いついたのが山本周五郎の「赤ひげ診療譚」である。あの赤ひげ先生が若い素浪人だったらどうだろう。小藩を脱藩して長崎で蘭学を学び、小石川の養生所ではなく、江戸の裏長屋で庶民の病気を診る。子供をからませるのも悪くない。しかし、オリジナル設定だけで毎回の話を脚本家に考えてもらうのは、やはり心配である。そこで昔お世話になった剣豪作家・柴田錬三郎先生にご相談することにした。
 その数年前、先生の「眠狂四郎」を平幹二郎の主演で放送したことがあった。演出は五社英雄。それが縁で何度かお目にかかっていた。ある晩、五社と私が先生から赤坂の料亭に突然招待され、招待理由を説明されたことがある。「いやあ、テレビというものを俺は少し馬鹿にしていたんじゃが、実はナ。テレビになったら『眠狂四郎』の文庫本が売れ出してな。原作料もらって、その上に印税までもらっちゃ悪いんで、一杯飲んでくれや」。
 そんなことで、柴錬先生はテレビというメディアに興味を持ち始めていると睨んだ。先生の指定で、日比谷の喫茶店で待ち合わせをした。「何だね」という先生にいきなり頭を下げた。「先生に書いていただきたい小説があるんです」と雑誌社の編集者のような口を利いた。「もちろん娯楽時代小説です。こちらは出版社や雑誌社でないので、その話を連載したり出版することはできないんですが、先生の原作ということで番組にしたいんです。当然原作料を支払います。原作がテレビに先行して発表されてもいいし、番組と同時進行で発表されても良いんです」。先生はチラと興味を示した。私は高橋英樹のことを説明し、「蘭学素養の素浪人」という設定を説明した。さらに生意気にも大先輩に向かって「丹下左膳」は林不忘の原作よりも大河内伝次郎の映画で人気になり、「退屈男」も右太衛門の映画のおかげで佐々木味津三の本が売れたんだと講釈したのである。「あのころの映画(のメディア力)は今のテレビです」。
 それは「眠狂四郎」で先生も実感したはずだった。
 で、「設定はそういうことで、お話は先生にお任せします。それからタイトルもぜひとも先生の方で」と拝み倒した。先生は「来月か再来月か、創刊する週刊誌から連載の話がきている。それに連載しよう」と快諾され、数日後にタイトルを戴いた。それが「おらんだ左門事件帖」。そのときの先生のノートには、タイトル案が二百ばかりあった。驚く私に「こんなの大した数じゃない。『眠狂四郎』のときは新潮社にしつこい担当者がおってな。二千案考えさせられた。この10倍じゃよ」と澄ましていた。ところが表紙に「おらんだ左門事件帖」と刷り込んだ企画書を営業に廻した途端にクレームが来た。「サモン」という薬があるのを忘れていたのである。その製薬会社のライバル社がスポンサーに内定していた。
 先生にまた頭を下げた。への字に結んでいた口を開いて先生は言った。「しょうがない。左近にしろ」。
 かくしてまだ出版されていないのに、「原作 柴田錬三郎」をトップタイトルに入れて、「おらんだ左近事件帖」が71年10月から始まった。放送は好評だった。「剣豪作家らしい剣豪姿で」と柴錬先生のゲスト出演を頼んだら「芦田と一緒なら出てもいいな」と言われた。
 芦田伸介と先生は同じ1917年生まれで、二人サシで徹夜するほどの博打親友だった。そこで二人のバクチ話を考えた。時代劇じゃあルーレットは無理。カードもウンスン歌留多は視聴者に分かりづらい。花札もサイコロもやくざっぽくて、主人公にもゲストにもそぐわないということで競馬になった。もちろん今の競馬レースが日本に来たのは明治になってからである。江戸時代らしく二頭の「競べ馬」で話を作った。そのときの演技を褒めたら、表情も変えずにボソリと言った。
 「俺は文士劇ではずっと良い役をやって来たんだ」。
 そうかもしれない。当時の先生は直木賞選考委員の筆頭格で、文壇の雄であった。