5《美空ひばりとお母さん》後編

 年開けて1966年、ドラマの企画は林与一と2人主役の「花と剣」というオリジナルになり、京都時代劇の重鎮たちが本を書き、忙しい彼女のスケジュールを縫って、5月から録画を始め、10月から放送された。無事お役御免になって、寂しい反面、ほっとした記憶がある。
 これが縁で、森繁久彌美空ひばりの初顔合わせのジョイントコンサートが実現できた話はに書いた。
 1968年3月12日、コンサートの録画が無事に終わった夜、お母さんが「センセ、センセ」と熱心に誘い、森繁久彌が赤坂のひばりのマンションに立ち寄った。こんなときのお母さんは下にもおかない最上級のもてなしをする。そして先生の興いたるを見るや、筆墨を揃え、大きな白紙を準備した。「センセ、記念に何か、お嬢に書いてやってください」。先生はやおらサラサラと書いた。
 「あくがれは てのひらの上の ギヤマンの玉なりや 地に落ちてくだくとも あくがれは なおてのひらにあり」。北原白秋ばりの即興詩をお嬢にプレゼントした。お母さんには「曇天の友」と書いた。「どういう意味ですか?」お母さんに代わって質問したスタッフがいた。先生は答えず、もう一枚書いた。
 「君晴天の友たるなかれ」。この書を質問したスタッフに渡して言った。「人生良いときも悪いときもある。良いときは友だちが寄って来る。誰でも晴天の友になりたがり、雨や嵐のときには寄り付かない。人間って、弱いからな。そういう生き方に文句は言えない。でも、友になるなら荒天の友は無理でも、せめて曇天の友だちでいて欲しいものよ」。お母さんは「曇天の友」を押し戴いた。良いシーンだった。

 加藤家には常に大勢の客がいた。いつ伺っても顔を合わせるのはラジオの天才子役と言われたNさんだった。多分ひばりとNさんは、古くから一番の親友のようだった。お互い小さなころにデビューし、少女時代から家庭学習で成人した共通点を持ったためかも知れない。なるほどと思ったのは、漫才や曲芸などの芸人さんがよく来ていたことだった。お笑いがブームになる前で、テレビに安いギャラで出るよりも、歌謡ショーの前座や幕間を受け持って旅する方がよかった時代だった。森繁・ひばりのジョイント・コンサートの数ヶ月間、有名な漫才コンビが新人の2人組を連れて来た。お母さんは聞いていたらしく、麻雀の炬燵から声をかけた。「そこでいいからちょいとやってみて」。2人が始めた芸に部屋中が笑い転げた。それはボケとツッコミが立ったままで演じる漫才と違って、応接間を所狭しと動き回り、全身を使った今で言うコント芸だった。
 全員の笑いがようやく収まったとき、お母さんが一言、真顔で言った。「あんたたち、歌の幕間じゃもったいないよ」。その言葉通り、2人は間もなくテレビで多くのレギュラー番組を持ち、各局の争奪戦となった。