4《美空ひばりとお母さん》前編

 それは「お嬢」こと美空ひばりだった。52年の短い生涯でレコードだけでも通算4千万枚以上を売り上げた人である。デビュー以来映画、演劇、レコード、ラジオ。何をやってもヒットを連発してきた大スターなので、テレビで無理する必要も無く、新曲を出す時に各局の音楽番組に出演する程度だったが、毎年のように紅白歌合戦の女王だった。お嬢の実質的なプロデューサーであるお母さんの加藤喜美枝さんにとっては、芸能界やマスコミ界に怖いものはなく、お嬢にとっての良い仕事の実現だけに情熱を傾け、「一卵性母娘」と言われていた。
 そのような力関係の中で、テレビ局は各局とも大物音楽プロデューサーが担当を務めていた。フジテレビでは畠山みどりの夫君である千秋与四夫プロデューサーが、最後まで非常に親しい担当者だった。
 「お嬢」が主演するテレビドラマの話が持ち込まれたのは、1965年の中頃で、そのときの私の上司の嶋田親一は、かつてニッポン放送時代にお嬢の連続番組を演出したことから「シマちゃん」「お嬢」と呼び合う仲だった。そんなイキサツで両先輩にくっついて、当時の赤坂の加藤家にしばしばお邪魔した。28歳になっていたお嬢は、家庭ではいつもにこにこしていて、あまり人の噂や悪口を言わない。お母さんがポンポン言いたいことを言って悪役を引き受けていたが、反面、これほど情報収集や勉強に熱心な人も珍しかった。このお母さんと身近に接することができたのは勉強になった。
 お母さんは麻雀が好きなのに、千秋、嶋田の両先輩は麻雀ができない。そのうちにメンバーに加えられ、なかなか帰してもらえず困ったこともあった。
 ドラマの話はなかなか進まなかった。別に急いだ話ではないため、レベル合わせに手間取った。半年ほどあれやこれやの話の中で、お母さんがあの映画のどこが良いと言えば見に行ったり、突然舞台を見ろと言われ、明治座や新宿コマに行くこともあった。歌謡ショーと一緒に実演と称する短いお芝居があり、それを見て企画の参考にしなさいと言うのである。行く行くと言って、行かず仕舞いで公演が終わったときなど、お宅に顔を出すと、今度はお嬢に言われる。「いつ来るかと(毎日客席を)見ていたけど、来なかったわね」。
 客席のどんな顔でも見分けることができるのがお嬢の特技だった。例えばこんな経験をした。
 この年の大晦日、フジテレビは紅白歌合戦の直前に有楽町の日劇から歌謡ショーを生中継した。日劇は今のマリオンの場所にあった。NHKは渋谷に引っ越す前で、まだ内幸町にあった。お嬢は日劇の番組を終わると、紅白を中継中の内幸町に駆けつけることになっていた。
 私は日劇裏手の楽屋口で彼女を迎えた。彼女が楽屋に入ると、私も駆け足で客席に戻り、右手の1カメのうしろに陣取った。舞台にはNHKを辞めた司会の高橋圭三と、相方は芳村真理。上手からお嬢が舞台に出てくる。
 彼女はこちらを一度も見ない。カメラの赤いターリ・ライトは客席左手の2カメに点灯している。つまり生放送だから2カメが撮っている絵が放送されている。私は首を伸ばして1カメの絵を見ていた。1カメのカメラマンがカメラアングルを色々変えてみるが、ここからは司会者2人に挟まれてお嬢の姿が映らない。カメラマンは明らかに焦っていた。ターリが1カメに飛んでくるのは時間の問題だったからである。その1カメのターリが点灯した瞬間、司会者と話しているお嬢が、カオはそのままでゆらりと動いた。すると、1カメからの3人の構図のバランスは最高になった。カメラマンはふーっと安堵の吐息をつく。その間一度も彼女はこちらを向かないのである。彼女はやはり天才なんだと私は思った。彼女がスリー・コーラスを歌い終わる前に、私は彼女を見送るために楽屋口に急いだ。彼女が小走りに出て来る。
 「お疲れ様です」と私が頭を下げ、それを聞き流して車に乗る直前、チラと私を振り返って言った。「1カメのうしろにいたわね」。エッと驚き、参った!と車を見送っていた。これだから手抜きはできない。(後編へつづく)


※嶋田親一氏の近著

人と会うは幸せ!―わが「芸界秘録」五〇

人と会うは幸せ!―わが「芸界秘録」五〇