6《京塚昌子》

 話を元に戻そう。京塚さんとのお付き合いは70年から始まった。京塚昌子40歳、私36歳。話はザックバランで、思ったことを腹の中に仕舞っておける人ではなく、お酒は飲めるし、年こそ少し上だが「可愛い女」の一面をドラマに出せればと思ったこともあった。ところが「肝っ玉かあさん」の大ヒットで、60年代から70年代にかけて、代表的な「日本のお母さん」になってしまったものだから、新しいイメージを付け加えたり、別のお母さんになってもらうことは至難の業だった。スポンサーも営業も、新しい京塚昌子はお呼びでなく、やはり「肝っ玉」イメージを期待したのである。役者はよく「一人一芸」と言われる。それが続くとマンネリズムだと言われたり、自分で感じたりして、別の芸を演じたいのも役者の一面だが、失敗することも多い。さらに悪いことに、私はホームドラマというジャンルにあまり自信がなかった。「両親のいないホームドラマ」と銘打って「若者たち」という青春ドラマを作ってしまったぐらいである。30代やそこらの男にホームドラマが作れる訳がないと、今になってつくづく思う。そんな中で悪戦苦闘し、水曜日9時の「水曜劇場」にいくつかのシリーズを出した。船越英二との夫婦で「おんぶにだっこ」、中山仁との「下町かあさん」は17〜8%までは行くが20%に届かず、北村和夫との「かあさんの四季」(1972〜73)で初めて20%を越えた。会社から、ご褒美に京塚さんたちへ1週間の米国旅行が企画され、随行を命ぜられたのはこのときである。サンフランシスコ、ハリウッド、アナハイムのディズニーランド(まだ浦安にはなかった)に行って、帰りにハワイに寄った楽しい旅行だった。
 京塚さんは私が編成局からネットワーク局に転出した後も、長くフジテレビに出演していただいた。77年に「水曜劇場」が「平岩弓枝ドラマシリーズ」に衣替えして、平岩さんが何人かの女優を目当てに脚本を書くシリーズが続いた。その中で京塚さんは80年から85年にかけて「女たちの家」、「女の座」、「女の暦」と活躍したが、惜しくも病を得て療養に専念するようになり、94年9月、心不全で亡くなった。享年64歳。