1《カラーテレビ時代の到来》

 フジテレビに入社以来、編成部で番組の企画を担当した12年間の最後の数年は、漸くカラー時代を迎えていた。カラーの技術は白黒テレビの放送開始時期にはほぼ出来上がっていたし、カラーの本放送も、実は昭和35年9月に始まっていたのだが、受像機があまりにも高すぎて、全国で2千台しか売れなかった。同年に発売された東芝の17インチが42万円、シャープの21インチが50万円という値段は、48年経った今の物価水準でも途方もない金額である。当時の物価水準と言えば、この年の初任給が大卒公務員で1万800円、大卒銀行員で1万5千円だったから、普及には絶望的な値段だった。放送する方にしても、お金のあるNHKですら『お笑い三人組』や『私の秘密』など1日1時間のカラー化がやっとである。つまりカラー放送が始まったころ、まだ日本は白黒テレビ時代の入口だった。その数年前の昭和30年に私は観一(注)を卒業したのだが、そのころやっと日本の家庭電化が始まったのである。「冷蔵庫、洗濯機、モノクロテレビ」が家庭電化の三種の神器と言われたのが昭和30年だった。後の人がこのころモノクロテレビが普及していたんだと思うと、大間違いする。昭和30年に東京の家庭で「憧れの電化製品」だっただけで、観音寺でモノクロテレビを持っていた家庭はおそらくゼロに近かったと思う。モノクロテレビが劇的に普及するのは昭和39(1964)年秋の東京オリンピックの直前である。この年でカラーテレビはまだ5万台しかなかった。カラーがブレークするのは昭和45(1970)年の大阪万博からである。全国の家庭が約4千万世帯と言われ、そのうち約2千万世帯がテレビを持ち、その中でNHKとカラー契約した世帯がモノクロを追い抜いたのが翌46(1971)年。つまり、カラーテレビ時代は70年代の前半に始まったのである。


注:観一=香川県立観音寺第一高等学校