10《「6羽のかもめ」を後にして》

 「信兵衛」が終わった昭和49年10月、土曜日の夜の10時から「6羽のかもめ」というスタジオドラマが始まった。原案・脚本は「信兵衛」の最初の2本を書いた倉本聰。かつて三百人の団員を擁した新劇の劇団「かもめ座」は、分裂を繰り返して今や6人。座長の淡島千景以下、加東大介長門裕之高橋英樹、夏純子、栗田ひろみの団員は、アパートを借りて共同生活を始める。という設定を面白がった私が、社内を説得して実現したようなものだった。一座の6分の1ということで、楽な気持ちで英樹がスタジオドラマに慣れてくれればという思いもあった。これが大こけにこけた。視聴率は最初から一桁、最後まで10%に届かなかった。皮肉なことに倉本聰夫人が新劇女優だったこともあり、どうも身内の話らしいとか、文学座杉村春子がモデルではないかとか、タレント仲間やマネージャー仲間で話題になり、さらに倉本聰のシナリオがかもめたちの仕事先の一つであるテレビ局を風刺することもあって、業界内部では受けに受けたのである。低視聴率に加えて困ったことは、この企画の最初のウリが、レギュラーの老若男女6人が毎回一人ずつ主役を務める約束だった。ところが番組は生き物で、6人の脇のテレビ局制作部長を演じる中条静夫に人気が集まったり、喫茶店の経営者ミネさんを演じるディック・ミネの素人芝居が受けたりしたため、6人が目立たない回があったものだから、「約束が違う」と言う人もいた。その約束が足かせになったのか、倉本聰が途中で書けなくなったりした。でもよくしたもので、リリーフで何本か書いた弟子の金子成人が、今ではシナリオ作家協会の大御所になっている。この番組が始まって一ヵ月、私はネットワーク局ネットワーク部に異動になった。
 倉本聰は早速その人事異動をネタにした話を書いた。
 彼の本質は私小説作家であることに気づいたのはそのときだった。幸いなことに番組は私が異動になっても打ち切りにならず、予定通り半年続いた。赤坂のディスコを借り切っての打ち上げの時、スタッフたちは編成局から離れていた私を呼んでくれた。そのときディック・ミネさんと肩を組んで「旅姿三人男」を歌ったのが楽しい思い出である。