2《「スター千一夜」を1年担当》
入社以来12年間、編成で番組企画を担当したと書いて来たが、実はその間1年だけ、制作部に異動し、「スター千一夜」の企画デスクのような仕事をやった。この異動には訳があった。「スター千一夜」は開局以来、夜の9時台に月曜から金曜まで毎晩15分編成された帯番組である。スポンサーも旭化成という一流銘柄が、開局以来変わらず1社で提供していた。この番組はテレビの初期には、大きな役割を果たした。テレビの初期、映画界のテレビボイコットによって、日本の映画スターはテレビに出演できなかった。
「スター千一夜」は、島津貴子さんをはじめとする皇室の方々や、ヨーロッパのジャン・ギャバンやアラン・ドロンといったスター、さらにはハリウッドのスターたちを出演させることで、日本の映画界にも少しずつ風穴を開け、日本の映画スターのテレビ初出演の多くは、この番組からであった。ところが10年もすると事情が変わってきた。1つは各局でニュースワイドショーが増えてくると、「スタ千」をテレビの皮切りにしたスターもそこに出るようになる。希少価値が薄れてきたのである。
もう1つの事情は、地方局のネット事情である。夜9時台というゴールデンタイムに15分番組を編成するために、残り45分をどうするか。フジは「お茶の間寄席」というお笑い15分ベルトを編成し、残り30分番組とセットで9時台を編成した。当時は東京の民放キー局は4、6、8、10チャンネルの4局あったのに対し、阪神、東海、北九州地区以外の各県の地方局の数は1つか2つで、地方局の立場が強かった。東京キー局の傘下に入って番組を丸ごとネットしなくても、月曜日は東京のA局の番組、火曜日はB局の番組と、欲しい番組だけアラカルトで選択できたのである。ベルト番組の「スタ千」をある曜日だけ取ることはできないので、フジのセット・メニューは蹴飛ばされて、9時台の番組は地方に
届かなかった。しかも、番組がもっとも高く売れる時間は、夜8時台から9時台へと変わりつつあった。また、アメリカの番組編成は既に30分番組が減り、1時間番組が増えつつあった。高度成長期のこれからを考えれば、9時台は1時間番組にしていくべきであり、そうすれば、番組を受けてくれる地方局の数も拡大しやすかった。つまり、テレビの編成的には「スタ千」は障害になりつつあったのである。
しかし視聴率的にはまだ余力があるし、一番困ったことには開局以来の大スポンサーの旭化成がこの番組を気に入っていて、やめる気は毛頭なかったのである。しかも「スタ千」の代理店は営業に大きな影響力を持つ電通だった。それでも当時の編成部は同じ社の営業から背中で撃たれるのを覚悟で、「スタ千」を9時台から7時台へシフトさせる提案を旭
化成と電通にすることにし、その資料の多くを私が書いた。もちろん7時台に移動して、視聴率が上がる保証はない。であっても、たとえ失敗して翌年番組が終わっても、番組表が良くなればいいと編成部は腹をくくっていた。そんなことはフジの営業にはもちろんのこと、電通にも旭化成にも口が裂けても言えない。ひたすら、今の時代は若い人にアッピールしなければいけないとか、晩飯食って晩酌すれば、9時には寝てしまう大人や老人もいるとか、勝手な理屈をつくっただけである。何度か編成部長と一緒に私も説明に行き、その結果、翌昭和44(1969)年の4月から「スタ千」は7時30分から45分まで、45分から8時までは「お茶の間寄席」ということが決まったのは前年の年末だった。年明けて部長に呼ばれた。「来年から1年間でいい。制作に行ってくれんか。制作と言うより『スタ千』の企画デスクをやって欲しいのよ。制作部長には了解を取った」。2月1日付けである。私も事情は分かった。旭化成を前にしてあれだけのプレゼンをしたのだから、編成としても特別体制をとったことを相手に見せる必要があった。「社内留学ですね」と言ったら、部長はニヤリとして言った。「骨は拾うよ」。
留学と言ったのはウソではない。やってみたかった仕事だった。9時台から7時台に移動した結果、出演者の顔触れ、話題、司会者の変更も含めて、作り方を変えなければならない。それにトライした。わずか1年間だったが、この仕事は大変勉強になった。当時の「スタ千」は週に5本放送するのに、専任のディレクターはわずか2人。残りは制作部各班に担当がいて、それぞれ東宝、松竹、大映など縦割りに担当が決まっていた。レコード会社の担当も別々で、先方の宣伝部と話し合って、適当な話題を作ってスケジュールを切ってきた。ナベプロやホリプロなどのタレントについても、懇意なディレクターが情報を持って来たり、出演者と話題をセットしたネタを持ってくる。婚約、結婚、子供の誕生、お宮参りなどは最高のネタである。それらがお互いのプラスになったり、財産になったりする関係だった。企画デスクはそのすべてのディレクターと仲良くして、先方のすべての窓口と付き合うことができた。やってみたかった理由は他でもない。「スタ千」の企画デスクほど、タレントやタレント事務所に顔が広がるポジションはなかったのである。
そして1年後の45(1970)年2月、編成部に復帰した。1年間で司会者も若返り、石坂浩二がメイン司会者に、さらに月に何度か吉永小百合が特別司会を務めてくれた。