8《幾つかの番組たち》〜『若者たち』編〜

編成部の企画担当は何でも屋なので、関わったドラマも多い。白黒時代で『三匹の侍』以外に記憶に残るものは『若者たち』と『男はつらいよ』だろうか。 2005年の春、北海道新聞のS編集委員の訪問を受けた。『若者たち』のころの話を聞きたいという。 「道新…

7《幾つかの番組たち》〜『ママとあそぼう! ピンポンパン』編〜

幼児番組『ママとあそぼう! ピンポンパン』も忘れ難い。この番組は『ゲゲゲ』の1年ちょっと前の昭和41(1966)年10月にモノクロでスタートした。当時、朝の8時台には『おはなはん』を始めとするNHKの朝ドラが視聴率を独占。フジの営業もこの時間は売り…

6《幾つかの番組たち》〜『ゲゲゲの鬼太郎』編〜

昭和42年某日、東映の本編(劇場映画のこと)の営業から異動したばかりの渡辺亮徳テレビ課長(後に東映副社長)が水木しげる原作『墓場の鬼太郎』という企画を持って来た。マンガ好きでお化け好きの私は、とっくにこの作品を愛読しており、これをアニメにす…

5《『かくし芸』のおかげで》

『かくし芸』はフジのバラエティの原点になった。フジのバラエティ路線を代表する番組は『火曜ワイドスペシャル』だと思われているが、その『火曜ワイスペ』の出発点になった番組が『テレビグランドスペシャル』という55分番組であることは意外に知られてい…

4《収録時の大事件》

この日の21時50分ごろ、東海道線の貨車に接触した横須賀線の上下線の電車が、鶴見駅〜新子安駅の間で二重衝突し、死者163名、重軽傷57名という大惨事となった。世に言う「国鉄鶴見事故」である。 その第一報が河田町のフジテレビに届いたとき、『かくし芸』…

3《第1回目の献立》

司会者はいなくて審査員は12名の小学生だった。タレントを東西に分け、東軍獅子舞は三木のり平とハナ肇。西軍の獅子舞は藤田まことと渥美清。献立は今とくらべてずっと素朴だった。 【東】 (1) 落語 谷 啓 (2) 蝶々夫人 石橋エータロー 安田伸 (3) 日舞 井上…

2《『かくし芸大会』の発端》

フジテレビの中でもこの番組がいつから始まったか覚えている人がいなくなった。社内のある公式印刷物には昭和41(1966)年1月『新春スターかくし芸大会』放送開始となっているが、これは同じタイトルで始まった日時をコンピュータで検索したためで、最初の…

1《編成企画で12年》

入社した年の10月改編が終わったころ、私は編成部の調査から企画に回された。企画班の先輩が「とりあえず年末年始の企画書を、君に全部書いてもらおう」と言ってニヤリとした意味がわかったのは後になってからだった。編成表を見れば、年末年始番組は大小わ…

9《鉄腕アトムを抱いて帰る》

そんな夏、大泉の東映動画(現東映アニメーション)に勤務していた兄(観一・4回卒。白川大作)から、手塚治虫さんがテレビ用のアニメ「鉄腕アトム」のサンプル作品を作る話を聞いた。手塚さんは日本のディズニーを目指して「虫プロダクション」を大泉と同…

8《視聴率と向かい合って》

入社の年、ビデオリサーチ社が設立されたが、まだ毎分刻みの視聴率を集計する機械が開発される前なので、ニールセン社を始め先発の調査期間も含めて、月に1回(一週間分)の調査は「訪問調査」が主流だった。一週間分の番組表をあらかじめ預けておく記入式…

7《編成の神様はアパッチの親分》

部長の椅子を惜しげもなくくれてしまった顔の長い部長こそ、共同通信の第一期生でニッポン放送の編成課長を経てフジの開局を準備し、「編成の神様」と言われた村上七郎さんだった。開局時に「母と子供のフジテレビ」というキャッチフレーズを作り、他局に先…

6《編成部というところ》

編成局の編成部というところは部長以下アルバイトまで入れて10人ほどの職場だった。当時のテレビ局の組織では簡便だった。プログラムと番組を作る局が編成局で、スポーツも報道も、映画の購入と吹き替えのセクションやドラマやバラエティ番組の制作も編成局…

5《わたしは言葉が分からない》

既存メディアの先輩たちに混じって、新卒の新人たちが最初に戸惑ったのは言葉である。先輩たちが勝手に自分が育った業界の用語や符丁を使うのだから、たまったものではない。アメリカのテレビ業界から来た外来語は勉強すれば分かるからまだ良い。裏方さんの…

4《ラジオ経験者の活躍》

後に日本を代表する映画監督になる五社英雄さんはニッポン放送からやってきた。開局当時「三太物語」でジュディ・オングや渡辺篤史を名子役に育てた嶋田親一さんは、新国劇を経てニッポン放送からテレビに転じた。お昼のメロドラマで「アップの太郎」と言わ…

3《テレビはすべて生放送だった》

既存メディアのDNAの中で、初期のテレビをもっとも支えたDNAは、映画よりもラジオだった。VTRが登場する前のテレビは、すべて生放送だった。VTRが登場して、VTR編集ができるようになってからは収録現場は映画の撮影現場に接近したが、生放送…

2《テレビの基礎は古いメディア人が作った》

映画や新聞には少年時代から関心があったため、素人なりに先入観やイメージがあった。ところが誕生まもないテレビの職場は、見るもの聞くもの初めてのものばかりだった。当時の社員は多分800人足らず。我々は開局3期生だから、大部分はさまざまな業界から来…

1《フジテレビなんか誰も知らんかった》

《フジテレビなんか誰も知らんかった》 私が新宿区河田町のフジテレビに入ったのは昭和37(1962)年の春である。30年に観一(香川県立観音寺第一高等学校)を卒業して、一浪で入った大学で6年在籍したため、観一の同期より三年遅れの社会人だった。入社同期…