8《視聴率と向かい合って》

 入社の年、ビデオリサーチ社が設立されたが、まだ毎分刻みの視聴率を集計する機械が開発される前なので、ニールセン社を始め先発の調査期間も含めて、月に1回(一週間分)の調査は「訪問調査」が主流だった。一週間分の番組表をあらかじめ預けておく記入式調査だった。ボクシングのタイトルマッチなど大きな特別番組の場合は、放送直後に片っ端から電話を入れる「電話調査」があった。いずれも番組を見たか見ないかの%が出るだけなので、これを毎分に直さなければいけない。各社の調査結果がそれぞれ一週間分、次の週に届く。15分番組が12. 3%なら、12. 3を15倍する。その下の45分番組が8%なら8を45倍する。それを全部足して60で割れば、その1時間分の毎分視聴率が出る。そのようにして午後7時から10時までの3時間180分の平均視聴率を出したり、放送開始から終了までの毎分視聴率を全放送時間の分数で割ったりするのである。だから前週の視聴率争いでフジがTBSやNHKにどれだけ肉薄したかとか買った負けたが出るのが次の週の後半だった。
 単調な仕事がまもなく面白くなった。不思議なもので、NHKを含めて5局の全番組表が頭に入って来たのである。それも視聴率付きで。どこかの局の新番組が毎週少しずつ上昇しているなどの情報は、毎日データが平等に届く現在と違って、当時は私が一番先に気づいた。だんだん視聴率と私の好みの格差も分かってきた。これらの経験は、後に企画を担当したとき、裏番組が何と何だからここは何番組が良いなどと大いに役に立った。

 学園紛争が流行した70年代、今村昌平さんが横浜でやっていた映画学校で、先生をやっていた脚本家の池端俊策さんに1回だけと頼まれて、脚本学科の講師をやったことがある。脚本家の卵たちも「造反有理」の紅衛兵のように先生に反乱を起こしていたころである。外部から招いた有名な講師が野次り倒され、教壇で立ち往生したという噂だった。私は一計を案じて前週の月〜日の各局の番組の視聴率を一枚にした表を、人数分コピーして持参した。彼らはテレビ局から来た男が変なドラマ論や脚本論をしゃべれば、すぐさま反論や質問攻めにしようと身構えていたようである。私は持参した視聴率表を裏返しにして卵たちに配った。「いま配った紙の表側を見ないで、先週見たテレビ番組のうち、あなたがまあまあ気に入ったという番組を、裏側に5つ書いてください」。

 卵たちが書き終わった後、紙を表に返し、自分たちが書いた5つの番組の先週の視聴率を調べさせた。そして言った。「5つの中に15%以上の番組が3つ以上あった人は手をあげてください」。誰もいない。「では2つ以上あった人」。これもいない。「1つあった人」。パラパラと数人の手があがった。あなたがたがどんな番組を気に入るかは各人の自由だが、視聴者の好みとあなた自身の好みの差が、こんなにひどいのでは、プロになる道は遠いと自覚しましょう、とプロとしての前提を確認させて話に入った。全員ショックを受けたらしく、教室がひきしまった。「視聴率がすべてではないが、馬鹿にしたらプロになれない」「15%以上あるドラマやドキュメンタリーをもっと見て欲しい」「好きな番組だけでなく、それを見て勉強して欲しい」「それ以上のアイデアを考える習慣をつける」「それが嫌ならプロにならずに、マスを対象にしない同人雑誌やサークル演劇をやりなさい」などと言いたい放題言って終わったら拍手してくれた。

 手回し計算機の能率が上がりだしても、先輩たちより先には帰りづらい。広報担当の先輩は、通常の事務屋さんが帰ったあと、何冊かの台本を持って現れ、それを読み、解説記事を書き出すのである。終わるのが深夜の11時か12時になる。これを手伝うことにした。ここでは台本を読むのが勉強になった。読んだイメージを文章にする。それが数日後の新聞に載ると嬉しいものである。ある日、自分のイメージとそれを演出するディレクターのイメージの食い違いに気づいた。それで暇を見つけて本番をテレビで見たり、スタジオに降りて行くようになった。気が付いたら一カ月の残業が100時間を軽く突破していた。残業手当が青天井なら良いのだが、本給の20%だか30%だかで打ち切りだった。
 そのころの下宿には風呂がついてなかった。近所の風呂屋が閉まるのが夜の11時。それに間に合わない日が続いた。夏が近づくにつれ、どうしても風呂に入らざるを得ない。しかたなく当時新宿にオープンした24時間のスチーム会館の回数券を買った。そこに飛び込んで終電に乗る日が続いた。