9《鉄腕アトムを抱いて帰る》

 そんな夏、大泉の東映動画(現東映アニメーション)に勤務していた兄(観一・4回卒。白川大作)から、手塚治虫さんがテレビ用のアニメ「鉄腕アトム」のサンプル作品を作る話を聞いた。手塚さんは日本のディズニーを目指して「虫プロダクション」を大泉と同じ沿線の石神井公園駅と富士見台駅の中間に設立したばかりであった。「虫プロ」誕生には東映動画も好意的だったようである。多くのアニメーターやトレーサーが参加した。兄も手伝って、大泉の東映動画のスタジオでダビングすると言う。当時は東映動画が唯一のアニメ制作会社で、「白蛇伝」など劇場用アニメーションを年に1本作っていたが、テレビは国産アニメではなくアメリカのテレビ・カートゥーンが全盛だった。中でもTBSの日曜日夕方7時半からの、ペコちゃんの不二家提供「ポパイ」は人気ナンバーワンであった。強いアニメを持っていないことは、「母と子供」のフジの泣き所だった。
 大泉に駆けつけると、声優たちが集まっていて、第1話「アトム誕生」の音入れの最中だった。もちろん白黒アニメである。すべて終わって最初からプレビューが始まる。その素晴らしい出来栄えに驚いて、前後もなく手塚さんに頭を下げて頼んだ。外部の人間として私以外に一人だけ広告代理店M社のAさんが同席していた。彼と奪い合うようにして「一日だけ貸してください」と完成フィルムのブリキ缶を抱きかかえてフジに戻った。手塚さんと親しかった兄が横にいたことが大きかった。
 編成局内の試写では大好評だった。片岡政則編成副部長は感動して唸った。米国テレビ映画の「アンタッチャブル」を獲得できたのに、フジ上層部の「いくら視聴率が欲しくてもギャングものはやるな」という良識論の前に破れてNETに譲り、悔し泣きをした人である。彼は「買おう!」と叫んだ。ところが毎週ダビングや編集に責任を負う映画部は「これだけのレベルの国産アニメを毎週30分継続して納入できる保証がない」と慎重だった。しかし翌日にこのフィルムを持ち帰ったAさんのM社がTBSに持ち込もうとしているという情報が入り、勝負に出た。編成から営業に話が走り、営業は明治製菓にプロモートし、扱いはM社、放送局はフジ、放送開始は38年1月1日となった。

 国産テレビアニメ第一号の栄誉を担って「鉄腕アトム」はスタートから29. 5%を記録した。明治製菓が起用した上原ゆかりのCMのマーブル・チョコレートは売れに売れ、番組は210回まで続くことになる。良いことづくめのようだったが、現場では大変だった。映画部の慎重論は正しかったのである。
 実は手塚さんとの話し合いで誤算が2つあった。1つは製作費である。当初1話分で150万円はかかるだろうと予測したが、手塚さんは80万円でやると請け負ったのである。差額の赤字を雑誌や単行本の収入で補う覚悟だった。この世界で虫プロが独走するために安い値段で受ける手塚さん独特の発想だった。しかし、現実的には一年後に東映動画の「狼少年ケン」がNETで始まり、竜の子プロの「宇宙エース」もフジで始まり、虫プロの独占にはならなかった。その上、安い相場を作ったことで、日本のテレビアニメの現場の過酷な状況が固定化されたのであった。
 第二は製作日数の問題だった。現場の総責任者の手塚さんが雑誌の仕事に追われて忙しすぎたことと、その完全主義から細部のリテークに次ぐリテークで、最初の1話の完成に数ヶ月かかったのである。放送に穴が空くということで、虫プロの幹部スタッフが手塚さんとひざ詰め談判し、2話以降は手塚さんは原作者にとどまり、製作現場を降りてもらうことにしたのであった。
 現場は大変苦労したが、世界に冠たるジャパン・アニメーションはここから始まった。米国NBCを皮切りに「アストロ・ボーイ」と改題されたこの番組は、全世界40カ国で放送され、多くのジャパン・アニメのオタクを作ることになった。フジテレビ自身も「アトム」に続いて「鉄人28号」「ハリスの旋風」「あしたのジョー」「ゲゲゲの鬼太郎」とヒットを連発、「ムーミン」「アルプスの少女ハイジ」などの名作路線や「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」などのホームアニメ路線などで「アニメのフジ」のイメージを定着させることになる。
(「テレビの森の中で 白黒テレビのころ 〜その2〜」へ続く)