テレビの森の中で 白黒テレビのころ 〜その1〜

9《鉄腕アトムを抱いて帰る》

そんな夏、大泉の東映動画(現東映アニメーション)に勤務していた兄(観一・4回卒。白川大作)から、手塚治虫さんがテレビ用のアニメ「鉄腕アトム」のサンプル作品を作る話を聞いた。手塚さんは日本のディズニーを目指して「虫プロダクション」を大泉と同…

8《視聴率と向かい合って》

入社の年、ビデオリサーチ社が設立されたが、まだ毎分刻みの視聴率を集計する機械が開発される前なので、ニールセン社を始め先発の調査期間も含めて、月に1回(一週間分)の調査は「訪問調査」が主流だった。一週間分の番組表をあらかじめ預けておく記入式…

7《編成の神様はアパッチの親分》

部長の椅子を惜しげもなくくれてしまった顔の長い部長こそ、共同通信の第一期生でニッポン放送の編成課長を経てフジの開局を準備し、「編成の神様」と言われた村上七郎さんだった。開局時に「母と子供のフジテレビ」というキャッチフレーズを作り、他局に先…

6《編成部というところ》

編成局の編成部というところは部長以下アルバイトまで入れて10人ほどの職場だった。当時のテレビ局の組織では簡便だった。プログラムと番組を作る局が編成局で、スポーツも報道も、映画の購入と吹き替えのセクションやドラマやバラエティ番組の制作も編成局…

5《わたしは言葉が分からない》

既存メディアの先輩たちに混じって、新卒の新人たちが最初に戸惑ったのは言葉である。先輩たちが勝手に自分が育った業界の用語や符丁を使うのだから、たまったものではない。アメリカのテレビ業界から来た外来語は勉強すれば分かるからまだ良い。裏方さんの…

4《ラジオ経験者の活躍》

後に日本を代表する映画監督になる五社英雄さんはニッポン放送からやってきた。開局当時「三太物語」でジュディ・オングや渡辺篤史を名子役に育てた嶋田親一さんは、新国劇を経てニッポン放送からテレビに転じた。お昼のメロドラマで「アップの太郎」と言わ…

3《テレビはすべて生放送だった》

既存メディアのDNAの中で、初期のテレビをもっとも支えたDNAは、映画よりもラジオだった。VTRが登場する前のテレビは、すべて生放送だった。VTRが登場して、VTR編集ができるようになってからは収録現場は映画の撮影現場に接近したが、生放送…

2《テレビの基礎は古いメディア人が作った》

映画や新聞には少年時代から関心があったため、素人なりに先入観やイメージがあった。ところが誕生まもないテレビの職場は、見るもの聞くもの初めてのものばかりだった。当時の社員は多分800人足らず。我々は開局3期生だから、大部分はさまざまな業界から来…

1《フジテレビなんか誰も知らんかった》

《フジテレビなんか誰も知らんかった》 私が新宿区河田町のフジテレビに入ったのは昭和37(1962)年の春である。30年に観一(香川県立観音寺第一高等学校)を卒業して、一浪で入った大学で6年在籍したため、観一の同期より三年遅れの社会人だった。入社同期…