6《編成部というところ》

 編成局の編成部というところは部長以下アルバイトまで入れて10人ほどの職場だった。当時のテレビ局の組織では簡便だった。プログラムと番組を作る局が編成局で、スポーツも報道も、映画の購入と吹き替えのセクションやドラマやバラエティ番組の制作も編成局の中にあった。その番組とスポットCMを売るのが業務局である。今でこそテレビの売上の主たるものはスポットであるが、普及途上の白黒テレビのころ、一番ありがたいお客様は番組の制作費を負担してくれる番組提供スポンサーだった。大きなスポンサーに信用のある営業マンが肩で風を切っていた。あとは技術局、経理局、総務局の5局だけ。人数は何と言っても編成局が多く、3階の一番広い大部屋を占拠していた。その中の編成部という部署は、番組に対する権限では新聞社の編集と整理が一緒になったようなところである。企画やタイトルの決定も、放送時間の決定も責任も、社の代表者から編成権を委任された形で引き受ける意味では、新聞の編集権に似ている。社内連絡の中枢で、編成部の発行する「編成決定伝票」が社内を廻らなければ、オフィシャルには現場が動き出さない。新聞と大きく違う点は、多くの新聞の編集局が広告局や販売局と独立して紙面を作れるのに比べ、初期のテレビの場合は常に営業部門の協力が必要だった。

 編成局の内外から企画を集め、準備する毎日と言えば楽しそうだが、その毎日のプログラムを作るためには、売る部門(業務局)が納得できるものでなければならなかった。両者の間には「当たるも八卦」に近い視聴率という価値基準があるだけである。「当たりそうだな」となっても、売る側は「その企画、1本どのくらいかかる?」というセリフを忘れない。彼らは彼らで、番組制作費以上の売上がノルマになるからである。従って「お金を使う編成局」のデスクと「お金を稼ぐ業務局」のデスクは、お互いの現場の意見を背景に、日々喧嘩のような論争が起こるのだった。その任に当たるのが副部長とデスク主任の二人だった。部長はまず席にいたことがなく、もっぱら記者クラブでラッパを吹いていたり、少しずつ増え始めていた地方局との合従連衡に骨身を削っていた。何しろ東京のキー局は4局だが、地方は1つの県に1つか2つ。例えば鹿児島の第一局はTBSと組、第二局はNTV、フジ、NET(日本教育テレビ・今のテレ朝)の人気番組を選り取りしていた。名古屋ですら2つしかないため鼻息が荒く、東京の局は頭を下げ通しだった。

 編成部は全番組の企画や編成を決めたり、その予算の使い方を決めることに始まり、明日の番組表の訂正連絡に至るまでの責任を持つ。全部生放送の時代なので、特番などによる「番組の変更」はたいてい間際に発生する。放送前日の出演者が病気になり、代わりの出演者を頼むこともある。デスクの横では、急な変更を新聞社やネット局に直通電話で連絡する「追訂」(追加訂正)担当が一人で頑張っていた。あの人が病気になったら、新聞の番組欄はどうなるんだろうと心配だった。番組表だけではない。新聞の番組欄に載せてもらう番組解説の作成や、毎週記者クラブに持って行く番組関連の発表資料の作成も編成部の仕事だった。昼間はディレクターを追いかけたり、スタジオに潜り込んで出演者にインタビューしたり、現場を歩きながらネタを集め、職場が静かになる夕方、机に向かって台本片手に解説を書く担当は二人しかいない。ハードなので手の空いた企画担当が手伝っていた。今では各局の広報部門は巨大化し、部から局になっている。解説も番組表も新聞社やテレビ週刊誌の貴重な情報であり、その配信専門の大きな会社まである。そんな仕事を数人でやっていた時代で、まだ広報部もなかった。

 編成部の中での花形は企画セクションだった。ディレクターや脚本家と企画の相談をしたり、隣の映画部と一緒に外国のテレビ映画の試写に行って、買うべきかどうか論議するためには、常に営業マンと接触していて、どこのスポンサーがどんな番組を欲しがっているかの情報ももっていなければならなかった。本を読んだり、映画館に入り浸ったりしながら、他局をどうやって出し抜こうか考え、放送が決まればタイトルやキャッチフレーズを考えるのも彼らだった。従って彼らはきわめて忙しかった。どこの現場でも新人の面倒を見るような暇な先輩はいない。編成部の色々な仕事を短期間でレクチャーを受けたが、何も教えてくれなかったのは企画の先輩たちだった。教えようがなかったと思う。「みんな走っているのだから一緒に走って、走りながら覚えろ」と言われただけだる。仕方なく走った。知恵熱のように最初の一週間ほどは眠ると夢ばかり見た。大抵は悪夢である。それでも一年もすれば、一番下っ端なのに大きな顔をしていた記憶がある。

 編成部にはまだ仕事があった。「調査」のセクションである。ここは年配の英語の堪能な先輩がアルバイトの男性と二人でやっていた。片岡さんという副部長から「そうだな。まず、調査だな」と言われ、私は調査の下っ端になった。今では東京の多くのテレビ局の調査部門は調査局になっている。ちなみに最初に調査部門を局にしたのはTBSである。調査というからには、視聴者の番組嗜好調査や、広告効果の調査をやるだろうし、勉強にはちょうどいいやと思っていたら、そんな仕事はどこにもない。私に与えられたのは一台の手回し式タイガー計算機と毎週届けられる視聴率調査の「番組視聴率」を毎分の視聴率に直し、一日の平均視聴率やゴールデンタイムの平均視聴率を出す仕事だった。それは良いが、私が座る机も椅子もない。机を買う金はあるが、スペースがないと言われた。数日後、初めて部長が現れた。顔が長くて鼻の大きい部長だった。片岡副部長が私を紹介し、席をどうするか相談したら即座に言った。「俺の席が空いているから、俺の席に座れ」。「その代わりな」と部長は私に小声で言った。「月に一度、月賦屋が俺の月賦の払いを取りに来る。右の引き出しに封筒を入れておくから、お前が払ってやってくれよな。俺がいつも居ないもんだから、月賦屋が何度も来て可哀想なんじゃ」。新入りの私は、それから約一年間、古色蒼然としたタイガー計算機とともに先輩たちを左右に見下ろす(気分の)部長席に座ることになった。