2《テレビの基礎は古いメディア人が作った》
映画や新聞には少年時代から関心があったため、素人なりに先入観やイメージがあった。ところが誕生まもないテレビの職場は、見るもの聞くもの初めてのものばかりだった。当時の社員は多分800人足らず。我々は開局3期生だから、大部分はさまざまな業界から来た中途採用の職務経験者だった。その多くが既存のメディア業界出身で、職場はまるで各種メディア人のバトル・ロイヤルの場であった。
まずラジオ。大株主の文化放送とニッポン放送から来たラジオ経験者に加えてNHKからの転職組もいた。聴覚メディアであるラジオの番組は人の声と自然音、効果音や擬音、それに音楽があればできた。テレビはこれに視覚を加えただけなのにスタッフは何倍も多くなる。カメラ、照明、大道具、小道具、タイトルや文字のデザイン、衣装、結髪などが必要になるということで映画・演劇界からも人が集まった。映画会社から来た元助監督や脚本家や、民芸、文学座、前進座といった新劇から新派、新国劇、歌舞伎座まで、演出家や照明マンなどの元スタッフがひしめいていた。美術デザイナーの一人だった妹尾河童さんは、藤原歌劇団の舞台美術出身だった。
報道やスポーツの分野には通信社や新聞社出身者もいた。広告代理店から来た営業マンや出版社の編集者など、私から見ればみんな凄いキャリアの怖いおじさんだったが、いま思えば彼らも若かった。テレビ局のあるべき姿をみんな勝手にイメージしながら、「自分の仕事は自分で決める」「決めた自分の領分では一歩も引かない」というサムライばかりだった。
要するにテレビを知らないメディア人たちが、それぞれのメディアのDNAを投げ込んで、寄ってたかってテレビのDNAを作っているわけで、それをまとめながら仕事をしていった管理職も、さぞかし大変だったろうと今頃気が付く。