1《フジテレビなんか誰も知らんかった》

《フジテレビなんか誰も知らんかった》

 私が新宿区河田町のフジテレビに入ったのは昭和37(1962)年の春である。30年に観一(香川県立観音寺第一高等学校)を卒業して、一浪で入った大学で6年在籍したため、観一の同期より三年遅れの社会人だった。入社同期18人の中でも最年長ということで、多少ませた口を利けても、しょせん同期で一番デキが悪いということなのである。後年「オレたちひょうきん族」でビートたけし明石家さんまを大スターにしたヨコちゃんこと横澤彪君も同期で、私より一歳年下だった。最年少はヒヨヒヨとした赤面症の少年だった。彼は早生まれで浪人もしなかったから実に四歳年下!ということは彼こそ同期の最優秀社員で、その理論どおり、ピカちゃんこと村上光一は、フジテレビの社長になった。

 フジテレビの正式名称は株式会社フジテレビジョンだが、免許をもらったときは「富士テレビジョン」だった。それがなぜフジテレビジョンになったのか先輩に聞いてみた。開局前のテスト放送で「富」の字画が多くてブラウン管の写りが悪かったから、すぐ変えちゃったのさ、と言われた。その程度の「身軽さ」がこの会社の身上だった。開局はテレビが始まって丸6年が経った昭和34年3月1日。その月末で受像機はまだ全国に198万台しかなかった。ところがフジと一緒に日本教育テレビ(今のテレビ朝日)とNHK教育が加わってNHK2、民放4の6チャンネルになったことと、4月に皇太子(現天皇)の御成婚が重なり、年度末には400万台を超え、35年半ばに500万台を突破したころからテレビはブレークした。テレビは世に言う「家電三種の神器」(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)のリーダーとなったのである。
 私が入社した開局3年のころは、その勢いのまま全国1000万台を突破していた。
 にもかかわらず、香川県でのフジテレビの知名度はゼロに近く、観音寺にいたっては完全にゼロだった。当時の香川県のテレビは、NHK(昭和32年松山局放送開始)と並んで、高松の西日本放送(昭和28年ラジオ開始、33年テレビ開始)がNTVの番組を流しているだけ。同じころ放送を始めた岡山の山陽放送(これはKRT、いまのTBSの番組)が電波の加減で見えるかどうかの2チャンネル半程度の環境だったので、ジューサーが売れていた富士電機に間違われた。「東芝やナショナルはテレビも作っとる。早川やゼネラル電機も作っとるきん、富士電機もテレビ出すんじゃろか」と思われたのか「ウチのジューサー壊れたら直してや」と何人かに言われた。
 日本のテレビ放送が始まったのは昭和28年だとよく言われるが、それは東京の話で、四国の一隅でテレビが流れたのはそれから4、5年経ってからだったし、フジテレビやテレビ朝日の番組が観音寺に届いたのは、昭和44年、私が入社して7年後のことだった。