4《ラジオ経験者の活躍》

 後に日本を代表する映画監督になる五社英雄さんはニッポン放送からやってきた。開局当時「三太物語」でジュディ・オング渡辺篤史を名子役に育てた嶋田親一さんは、新国劇を経てニッポン放送からテレビに転じた。お昼のメロドラマで「アップの太郎」と言われ、後に吉永小百合さんと結婚した岡田太郎さんは文化放送からで、「おとなのマンガ」という毎日5分の風刺番組を毎日受け持ち、クレージーキャッツ青島幸男を育て、「ヒットパレード」を週1回こなしてナベプロの和製ポップスを世に広めた椙山浩一(作曲家すぎやまこういち)さんも文化放送出身だった。彼は忙しいときは週10本ぐらいの生番組を平気でこなしていた。この人は東大工学部で建築を専攻した異色の音楽家で、五社さんより先にフジを飛び出してフリー作曲家になり、ゲームにはまって、ドラクエ・シリーズの音楽を最初から作った。私より3つ年上なのにいまだに若者たちの仲間だから凄い。
 そんなわけで、草創期のテレビの元気はラジオ出身者に負うところが大きい。特にフジテレビの場合、ラジオ業界のライバル2社からほぼ同数の社員が派遣されたため、テレビの中でも対抗意識を燃やしたようである。それは実力がすぐ分かる制作現場では元気の素になったが、事務的な現場では優秀な一方を上げれば無能な他方も上げなければという「悪平等」的な弊害も起きた。
 話をもどせば、日本に限らず欧米でも、テレビ界から映画界に進出して成功したドラマ演出家は多いが、映画界からテレビに転身しての成功例がほとんど見当たらないのは、映画界には生放送DNAがなかったからだというのが私の持論である。
 しかし映画界の人材が初期のテレビで重要な働きをした分野があった。1つはニュースとドキュメンタリーの分野であり、もう1つはコマーシャルの分野だった。ビデオカメラが出現するまで、生放送のニュース番組の事件現場は16ミリフィルムを現像して放送していたし、初期のスポーツニュースもそうだった。さらに初期のVTRドラマでも、ロケ部分はフィルムが活躍した。考えてみればテレビが登場する前は、映画館で劇映画の前にニュース映画をやっていたのである。だから初期のテレビにカメラマンとして参加した人や、ドキュメンタリーで活躍した人の中には、岩波映画や日本映画社などのスタッフも多かった。しかし、フィルムカメラに誇りと愛着を持ち、名カメラマンと言われた人に限って、70年代になって、小型VTRカメラを持つことに躊躇したのである。そうしたカメラマンは、やがて消えて行った。
 CMも白黒テレビの初期は16ミリのCF(コマーシャル・フィルム)が中心だった。35ミリの劇場用カラーフィルムになったのはカラーテレビの普及に依る。