5《『かくし芸』のおかげで》

 『かくし芸』はフジのバラエティの原点になった。フジのバラエティ路線を代表する番組は『火曜ワイドスペシャル』だと思われているが、その『火曜ワイスペ』の出発点になった番組が『テレビグランドスペシャル』という55分番組であることは意外に知られていない。
 そして、『テレビグランドスペシャル』は『かくし芸』の土壌から生まれたのである。


☆『テレビ グランドスペシャル』
 放送枠は土曜8時〜8時55分。昭和42年11月から43年3月末までの5ヵ月間の毎回単発だった。
 これは当時の編成が満を持して準備した番組ではなく、その前のテレビ映画が不振のため4ヵ月で早じまいしたための、苦しまぎれの後企画だった。不振番組を打ち切ったが、穴をあけるわけにはいかない。局内制作で手当せざるを得ないが、作るのは良いが企画の中身は編成が考えてくれと制作部長に言われ、編成部企画班、特に担当の私は毎週毎週が死ぬ苦しみだった。『かくし芸』でスギさんのAD(アシスタント・ディレクター)を務めた石黒正保PDにお願いして、早稲田大学の体育館でナベプロの若手タレントを集めた『オールスター大運動会』を収録した。これを一週と二週の前後編に分けて放送して時間を稼ぎ、その二週間の間に何本かの企画を立てて、走り回った。
 当時でも残り少なかった寄席の定席の1つ、人形町の末広が廃業すると聞いて、色物タレント以外の映画俳優や歌手に寄席ネタを演じてもらう『人形町末広閉店記念・スター寄席』を仕込んだり、美空ひばり森繁久彌という初顔合わせ番組のOKを、両御大のそれぞれの楽屋で取ったはよいが、稽古の時間が取れず、ぶっつけ本番のショーを厚生年金ホールで収録したり、翌43年4月からのテレビ映画の新番組の開始までのツナ渡りの5ヵ月だった。
 最初に放送した運動会企画だって、当時は非常識な企画だった。タレントを100人ほど集めて大運動会をやれないかと石黒PDに言ったら、彼はマッツァオに青ざめた。まじめな彼は一人一人のギャラを計算したらしいが、こちらはユニット・ギャラで始まった『かくし芸』と同じだと思っている。ナベプロでもマナセでも社内運動会や社内野球やボーリングなど毎年やっているだろう? それを「丸ごともらって、撮って、いくら」にできないかね。できるはずだよと粘った。そんな提案をナベプロも受けてくれたから、この会社もフジと似たDNAかも知れない。このシリーズがいわゆるバラエティの長尺スペシャルの元祖になった。


☆『火曜ワイドスペシャル』の誕生
 その日ぐらしのプロデュースじゃなくて、編成と制作でちゃんとした体制を組めば『グラスペ』90分もできるね、ということで誕生したのが、木曜8時から9時26分に組んだ『木曜スペシャル』(昭和44年1月末〜45年3月末)や火曜ナイター枠の雨傘番組『テレビグランドスペシャル』だった。雨傘というのはナイターが雨で中止の場合の差し替え番組である。これが好調で、翌46年の夏編成では『火曜ワイスペ』と木曜の『テレビグランドスペシャル』の2枠雨傘編成となった。