4《収録時の大事件》

 この日の21時50分ごろ、東海道線の貨車に接触した横須賀線の上下線の電車が、鶴見駅新子安駅の間で二重衝突し、死者163名、重軽傷57名という大惨事となった。世に言う「国鉄鶴見事故」である。
 その第一報が河田町のフジテレビに届いたとき、『かくし芸』のPD、スギさんこと椙山浩一(現・作曲家すぎやまこういち)は「1スタ」のサブにいた。スギさんは入念なリハーサルを開始したばかりだったが、事件の発生を聞き、彼は報道部員でもないのに決断した。直ちに番組収録を中止し、自身は局が買ったばかりの虎の子中継車を引き出し、『かくし芸』収録のカメラマンを乗せて現場に駆けつけたのである。この出動が技術局に残された古い記録に、報道中継車の初出動として記録されている。当時の技術局も困ったらしい。何のためにどこへ出動したかは記録されていない。そのとき、スギさんには夜中の報道局の少ない当直体制は分かっていた。しかも報道中継の技術スタッフを自宅から呼び出すよりも、自分の番組の最良のスタッフと共に、自分が現場に駆けつけることを、瞬間的に選んだのである。彼が現場に到着したとき、NHKを含めどの局もいなかった。当時のテレビ報道のほとんどが16ミリカメラで取材したフィルムを、局に持ち帰って現像し、コメントをつけて放送していたときに、生放送ができる中継車付きカメラの一番乗りである。彼は横転した電車の目の前に中継車を陣取り、カメラマンを配置し、最高のカメラアンルを決めた。後は中継技術陣の到着を待つだけだった。
 やがて到着したスタッフが中継機材のセッティングに入ったが、痛恨と言おうか、悲惨と言おうか、そのポジションから肝心の東京タワーが見えなかったのである。ということは、東京タワーに電波が届かないわけである。
 あわてて場所を変えようとしたときには、他局の取材陣に他のポジションを占領されていた。
 この「スギさんの早トチリとアパッチ」は局内で「スギさんらしいや」と笑い話になったが、誰一人として彼を非難する者はいなかった。『ザ・ヒットパレード』と『スパークショー』の生レギュラーを毎週2本、月〜金のお昼の生ベルト『おとなのマンガ』の5本を加えて、毎週7本を制作・放送している局内で誰よりも忙しい男が、事件の第一報で自分の番組のVTR収録を打ち切り、セクト主義を乗り越えて現場に直行した。その彼に、心ある社員は真のテレビマンの姿を見たのである。
 「あのときナベプロの方の後始末はどうしたの?」あれから44年経った2007年の春、私はスギさんに聞いた。「別にトラブルにはなんなかったよ。細かいことは覚えてないけど、もう一度タレントを集め直して撮り直したんだから、やっぱりナベシンさんが太っ腹だったんじゃないの」「偉いねえ。流石ナベシンさんだけど、スギさんが担当だったことも大きかったと思うよ」。 スギさんは文化放送からフジに出向したときから報道志望だったそうである。報道には行けなかったが「俺はテレビは報道だという信念だったから、『おとなのマンガ』も『ヒッパレ』もニュース番組のつもりでやっていたよ」。電話の向こうの当時74歳の彼は青春時代と同じ声だった。これは私が、初期テレビマンのDNAとしていつか伝え残したいと思っていたエピソードである。
 『かくし芸』は、この翌年からセットも派手に電飾で飾り、審査員も偉くなり、司会に高橋圭三が登場する。放送日も昭和40年1月2日午後7時半から9時までの90分の『新春かくし芸大会』になったが、第1回同様キネコもビデオも残っていない。紙数の関係で献立表は割愛するが、プロ野球の現役スター長嶋茂雄柴田勲金田正一が出演して唄を歌ったのが話題になった。
 この2回目にいかり矢長一、加藤英文という新人が端役で出演した。ドリフターズを結成する前のいかりや長介加藤茶である。
 41年正月放送の第3回目からタイトルが『新春スターかくし芸大会』となった。40年の暮れの収録で、ここからVTRの抜き撮りも始まり、女性タレントの踊りや歌謡ドラマが本格化して、視聴率も44. 3%を記録。以後、もちろんカラー化もされ、時間枠も拡大し、前後編を2日間で放送するに至った。