2《『かくし芸大会』の発端》

 フジテレビの中でもこの番組がいつから始まったか覚えている人がいなくなった。社内のある公式印刷物には昭和41(1966)年1月『新春スターかくし芸大会』放送開始となっているが、これは同じタイトルで始まった日時をコンピュータで検索したためで、最初のタイトルは『新春ポピュラー歌手かくし芸大会』だった。放送は昭和39(1964)年1月2日、午後4時45分から5時半までの45分番組。今のような大番組ではなく単なる正月単発だった。もちろんカラー番組でもなかった。
 企画の発端は昭和38(1963)年夏。ナベプロナベシンさんこと渡辺晋社長と、フジの編成・首脳陣との間で、年末年始でドーンと面白いことやろうよ、という話し合いがもたれた。その話がナベシンさんからナベプロの松下治夫制作部長に降り、彼が構成作家の塚田茂さんに相談した。このときに塚田さんからタレントの隠し芸というアイデアが出
た。塚田さんは日劇のショーの演出や構成を経て、日テレの『シャボン玉ホリデー』、フジの『ザ・ヒットパレード』や『スパークショー』などのナベプロ番組で売り出し、この『かくし芸』や『夜のヒットスタジオ』で60年代後半から80年代一杯テレビ界を席巻することになる。その売れっ子ぶりは今の秋元康さんに匹敵しよう。
 そのアイデアに乗った松下部長が塚田さんを連れて、フジテレビに来た。フジ側は『ザ・ヒットパレード』のPD椙山浩一さんと、編成から私・白川の計4人で、3階の編成局の大部屋の、局長前の応接セットで話し合ったのが第1回目の会議だった。先方の企画といっても企画書にしてきたわけでもなく、塚田さんがアイデアを口立てで喋る。玉川良一浪花節出身だから講談ぐらいできるとか、尾藤イサオジャグラー出身だから何か曲芸をやらせようとか、我々二人も乗ったものだからアイデアを出し、そこで話が膨らんだ。そちらの方が面白くて、尾藤や玉川の芸は結局ボツになった。