7《高橋英樹に始まって》その1
高橋英樹はこのとき26歳。非常にクレバーな好青年だった。しかも大変堅実な考えの持ち主だった。日活の男性スターの多くが裕次郎を慕って石原プロに籍を置いたのに対し、彼は淡島千景の事務所に入った。その関係で、歌舞伎以外の商業演劇で淡島を相手役にすることが多かった尾上松緑の一座に若手役で陣借りしながら、一年の半分は舞台で勉強することになった。そして残り半年をテレビ映画という形でテレビに娯楽時代劇のレギュラーを持とうと言うのである。当時のテレビは時代劇が盛んで、各局とも週に2、3本は持っていた。現代アクションの場合、ライバルは石原プロの先輩だけでなく、劇団にも多い。要は需要性である。さらに時代劇の芝居は歌舞伎の伝統もあって、形から入りやすい。その訓練を松緑一座で始めた。それに映画の経験しかない若手俳優にとって、コマ切れの少ないテレビスタジオのVTRドラマは冒険だった。そのため、テレビのレギュラー時代劇は、VTRで撮るNHKの大河ドラマではなく、民放のテレビ映画を選び、その企画に「退屈男」を選んだ。大柄で顔の立派な時代劇役者は、目明かしや忍者の役は似合わない。やはり「お奉行」や「将軍」、汚しても素浪人ものである。既に加藤剛の「大岡越前」あり、中村梅之助や杉良太郎の「遠山の金さん」ありで、手垢のついていない「ご存知もの」は「退屈男」だけだった。
それにしても「ご前」がよく理解したなと思った。当時の京都で「ご前」と言えば市川右太衛門のことを指した。ちなみに、ご前と共に東映の重役だった片岡千恵蔵は「御大」、大川橋蔵は「親分」で、市川雷蔵は「お兄ちゃん」、萬屋錦之助は「錦にい」が映画屋さんの符丁だった。額の三日月傷と諸羽流青眼崩しの剣さばき。退屈男・早乙女主水之介を演じて「早乙女のご前」と呼ばれながら、右太衛門はこのシリーズを戦前から30本撮った。寅さんシリーズ以前では日本最長のシリーズだった。京都だったら、ご前の了解なしにこの仕事を受ける撮影所はなかったろう。製作を受けたのは世田谷の東京映画。まず「退屈男」の原作者・佐々木味津三の未亡人からテレビ化権を取って番組を作ったが、やはり色々あって、このシリーズはヒットはしたが半年で終了した。
右太衛門が戦前に取った作品では「退屈男」は若かった。でも戦後の右太衛門のイメージが強くて、「退屈男」は英樹では若すぎるのではないかと言う人もいた。彼は笑ってそれを受け流した。彼の持論は「自分の年齢より何歳か年上の役を目指し続けた方が、選手寿命が長くなる」というのである。その通りである。若い役で当たり過ぎて老け役の年になって、若者顔で駄目になった役者は大勢いる。後年、英樹がNHKのクイズ番組のレギュラーになったときもびっくりしたが、時代劇番組衰退の中で、60歳を過ぎて逆に今なお若々しく、茶の間で生き抜いている彼に敬服する。
6《京塚昌子》
話を元に戻そう。京塚さんとのお付き合いは70年から始まった。京塚昌子40歳、私36歳。話はザックバランで、思ったことを腹の中に仕舞っておける人ではなく、お酒は飲めるし、年こそ少し上だが「可愛い女」の一面をドラマに出せればと思ったこともあった。ところが「肝っ玉かあさん」の大ヒットで、60年代から70年代にかけて、代表的な「日本のお母さん」になってしまったものだから、新しいイメージを付け加えたり、別のお母さんになってもらうことは至難の業だった。スポンサーも営業も、新しい京塚昌子はお呼びでなく、やはり「肝っ玉」イメージを期待したのである。役者はよく「一人一芸」と言われる。それが続くとマンネリズムだと言われたり、自分で感じたりして、別の芸を演じたいのも役者の一面だが、失敗することも多い。さらに悪いことに、私はホームドラマというジャンルにあまり自信がなかった。「両親のいないホームドラマ」と銘打って「若者たち」という青春ドラマを作ってしまったぐらいである。30代やそこらの男にホームドラマが作れる訳がないと、今になってつくづく思う。そんな中で悪戦苦闘し、水曜日9時の「水曜劇場」にいくつかのシリーズを出した。船越英二との夫婦で「おんぶにだっこ」、中山仁との「下町かあさん」は17〜8%までは行くが20%に届かず、北村和夫との「かあさんの四季」(1972〜73)で初めて20%を越えた。会社から、ご褒美に京塚さんたちへ1週間の米国旅行が企画され、随行を命ぜられたのはこのときである。サンフランシスコ、ハリウッド、アナハイムのディズニーランド(まだ浦安にはなかった)に行って、帰りにハワイに寄った楽しい旅行だった。
京塚さんは私が編成局からネットワーク局に転出した後も、長くフジテレビに出演していただいた。77年に「水曜劇場」が「平岩弓枝ドラマシリーズ」に衣替えして、平岩さんが何人かの女優を目当てに脚本を書くシリーズが続いた。その中で京塚さんは80年から85年にかけて「女たちの家」、「女の座」、「女の暦」と活躍したが、惜しくも病を得て療養に専念するようになり、94年9月、心不全で亡くなった。享年64歳。
5《美空ひばりとお母さん》後編
年開けて1966年、ドラマの企画は林与一と2人主役の「花と剣」というオリジナルになり、京都時代劇の重鎮たちが本を書き、忙しい彼女のスケジュールを縫って、5月から録画を始め、10月から放送された。無事お役御免になって、寂しい反面、ほっとした記憶がある。
これが縁で、森繁久彌と美空ひばりの初顔合わせのジョイントコンサートが実現できた話は先に書いた。
1968年3月12日、コンサートの録画が無事に終わった夜、お母さんが「センセ、センセ」と熱心に誘い、森繁久彌が赤坂のひばりのマンションに立ち寄った。こんなときのお母さんは下にもおかない最上級のもてなしをする。そして先生の興いたるを見るや、筆墨を揃え、大きな白紙を準備した。「センセ、記念に何か、お嬢に書いてやってください」。先生はやおらサラサラと書いた。
「あくがれは てのひらの上の ギヤマンの玉なりや 地に落ちてくだくとも あくがれは なおてのひらにあり」。北原白秋ばりの即興詩をお嬢にプレゼントした。お母さんには「曇天の友」と書いた。「どういう意味ですか?」お母さんに代わって質問したスタッフがいた。先生は答えず、もう一枚書いた。
「君晴天の友たるなかれ」。この書を質問したスタッフに渡して言った。「人生良いときも悪いときもある。良いときは友だちが寄って来る。誰でも晴天の友になりたがり、雨や嵐のときには寄り付かない。人間って、弱いからな。そういう生き方に文句は言えない。でも、友になるなら荒天の友は無理でも、せめて曇天の友だちでいて欲しいものよ」。お母さんは「曇天の友」を押し戴いた。良いシーンだった。
加藤家には常に大勢の客がいた。いつ伺っても顔を合わせるのはラジオの天才子役と言われたNさんだった。多分ひばりとNさんは、古くから一番の親友のようだった。お互い小さなころにデビューし、少女時代から家庭学習で成人した共通点を持ったためかも知れない。なるほどと思ったのは、漫才や曲芸などの芸人さんがよく来ていたことだった。お笑いがブームになる前で、テレビに安いギャラで出るよりも、歌謡ショーの前座や幕間を受け持って旅する方がよかった時代だった。森繁・ひばりのジョイント・コンサートの数ヶ月間、有名な漫才コンビが新人の2人組を連れて来た。お母さんは聞いていたらしく、麻雀の炬燵から声をかけた。「そこでいいからちょいとやってみて」。2人が始めた芸に部屋中が笑い転げた。それはボケとツッコミが立ったままで演じる漫才と違って、応接間を所狭しと動き回り、全身を使った今で言うコント芸だった。
全員の笑いがようやく収まったとき、お母さんが一言、真顔で言った。「あんたたち、歌の幕間じゃもったいないよ」。その言葉通り、2人は間もなくテレビで多くのレギュラー番組を持ち、各局の争奪戦となった。
4《美空ひばりとお母さん》前編
それは「お嬢」こと美空ひばりだった。52年の短い生涯でレコードだけでも通算4千万枚以上を売り上げた人である。デビュー以来映画、演劇、レコード、ラジオ。何をやってもヒットを連発してきた大スターなので、テレビで無理する必要も無く、新曲を出す時に各局の音楽番組に出演する程度だったが、毎年のように紅白歌合戦の女王だった。お嬢の実質的なプロデューサーであるお母さんの加藤喜美枝さんにとっては、芸能界やマスコミ界に怖いものはなく、お嬢にとっての良い仕事の実現だけに情熱を傾け、「一卵性母娘」と言われていた。
そのような力関係の中で、テレビ局は各局とも大物音楽プロデューサーが担当を務めていた。フジテレビでは畠山みどりの夫君である千秋与四夫プロデューサーが、最後まで非常に親しい担当者だった。
「お嬢」が主演するテレビドラマの話が持ち込まれたのは、1965年の中頃で、そのときの私の上司の嶋田親一は、かつてニッポン放送時代にお嬢の連続番組を演出したことから「シマちゃん」「お嬢」と呼び合う仲だった。そんなイキサツで両先輩にくっついて、当時の赤坂の加藤家にしばしばお邪魔した。28歳になっていたお嬢は、家庭ではいつもにこにこしていて、あまり人の噂や悪口を言わない。お母さんがポンポン言いたいことを言って悪役を引き受けていたが、反面、これほど情報収集や勉強に熱心な人も珍しかった。このお母さんと身近に接することができたのは勉強になった。
お母さんは麻雀が好きなのに、千秋、嶋田の両先輩は麻雀ができない。そのうちにメンバーに加えられ、なかなか帰してもらえず困ったこともあった。
ドラマの話はなかなか進まなかった。別に急いだ話ではないため、レベル合わせに手間取った。半年ほどあれやこれやの話の中で、お母さんがあの映画のどこが良いと言えば見に行ったり、突然舞台を見ろと言われ、明治座や新宿コマに行くこともあった。歌謡ショーと一緒に実演と称する短いお芝居があり、それを見て企画の参考にしなさいと言うのである。行く行くと言って、行かず仕舞いで公演が終わったときなど、お宅に顔を出すと、今度はお嬢に言われる。「いつ来るかと(毎日客席を)見ていたけど、来なかったわね」。
客席のどんな顔でも見分けることができるのがお嬢の特技だった。例えばこんな経験をした。
この年の大晦日、フジテレビは紅白歌合戦の直前に有楽町の日劇から歌謡ショーを生中継した。日劇は今のマリオンの場所にあった。NHKは渋谷に引っ越す前で、まだ内幸町にあった。お嬢は日劇の番組を終わると、紅白を中継中の内幸町に駆けつけることになっていた。
私は日劇裏手の楽屋口で彼女を迎えた。彼女が楽屋に入ると、私も駆け足で客席に戻り、右手の1カメのうしろに陣取った。舞台にはNHKを辞めた司会の高橋圭三と、相方は芳村真理。上手からお嬢が舞台に出てくる。
彼女はこちらを一度も見ない。カメラの赤いターリ・ライトは客席左手の2カメに点灯している。つまり生放送だから2カメが撮っている絵が放送されている。私は首を伸ばして1カメの絵を見ていた。1カメのカメラマンがカメラアングルを色々変えてみるが、ここからは司会者2人に挟まれてお嬢の姿が映らない。カメラマンは明らかに焦っていた。ターリが1カメに飛んでくるのは時間の問題だったからである。その1カメのターリが点灯した瞬間、司会者と話しているお嬢が、カオはそのままでゆらりと動いた。すると、1カメからの3人の構図のバランスは最高になった。カメラマンはふーっと安堵の吐息をつく。その間一度も彼女はこちらを向かないのである。彼女はやはり天才なんだと私は思った。彼女がスリー・コーラスを歌い終わる前に、私は彼女を見送るために楽屋口に急いだ。彼女が小走りに出て来る。
「お疲れ様です」と私が頭を下げ、それを聞き流して車に乗る直前、チラと私を振り返って言った。「1カメのうしろにいたわね」。エッと驚き、参った!と車を見送っていた。これだから手抜きはできない。(後編へつづく)
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3《スターを担当する》
先に触れたように、フジ・博報堂連合がTBS・電通連合を相手に「渥美清争奪戦」をやったのが1968年だった。カラー時代を迎えた70年前後から、各局は視聴率の取れるタレントを囲い込もうとしていた。そのために各社それぞれに編成部や制作部などのセクションを越えて、「タレント担当」をつけることが流行った。
最初は映画俳優やスター歌手の担当が多かったが、後にはお笑いの争奪戦も始まり、80年代には原作者や脚本家の抱え込みまであった。1970年6月に編成に復帰した私にも、「担当のお鉢」が廻って来た。しかも上司は一度に2人持てと言う。1人はTBS「肝っ玉母さん」で大ヒットを飛ばしていた京塚昌子である。ホームドラマが父親中心から母親中心に切り替わったとまで言われたホームドラマの顔・京塚昌子は、私がスタ千の専任になっていた間にフジでの初出演が決まり、私が復帰した2ヵ月後に放送が始まった。渥美清との共演で、題して「おれの義姉(アネ)さん」。脚本・山田洋次、演出・小林俊一のテレビドラマ「男はつらいよ」のコンビだった。「男はつらいよ」では愚兄賢妹だったのが、これは愚弟賢姉の話だった。これで当たらぬ訳がない、とみんな思った。ところが、不発ではなかったが大ヒットには遠かった。番組というものは難しいものである。
これで京塚さんがTBSに帰ったきりになると困る。お前は付きっきりになれと言われた。失敗は許されないし、常に古巣のTBSや、石井ふく子プロデューサーと比較されるだけに、これはつらい担当だった。
もう一人は日活の若手スター、高橋英樹だった。テレビに押されて斜陽とはいえ、彼は映画界での最後の看板スターと目されていた。その彼がテレビで初めて主演する番組の企画は既に決まっていた。あの市川右太衛門のヒットシリーズ「旗本退屈男」である。なるほど、それは多分当たるでしょうね。2人の担当と言っても、次の企画を決めるための話し相手だから、当たれば当分楽ですね、と引き受けた。実を言えば、担当と言うほどではないが、数年前にも大変な大スターの「担当の端くれ」をやったことがあった。(つづく)
2《「スター千一夜」を1年担当》
入社以来12年間、編成で番組企画を担当したと書いて来たが、実はその間1年だけ、制作部に異動し、「スター千一夜」の企画デスクのような仕事をやった。この異動には訳があった。「スター千一夜」は開局以来、夜の9時台に月曜から金曜まで毎晩15分編成された帯番組である。スポンサーも旭化成という一流銘柄が、開局以来変わらず1社で提供していた。この番組はテレビの初期には、大きな役割を果たした。テレビの初期、映画界のテレビボイコットによって、日本の映画スターはテレビに出演できなかった。
「スター千一夜」は、島津貴子さんをはじめとする皇室の方々や、ヨーロッパのジャン・ギャバンやアラン・ドロンといったスター、さらにはハリウッドのスターたちを出演させることで、日本の映画界にも少しずつ風穴を開け、日本の映画スターのテレビ初出演の多くは、この番組からであった。ところが10年もすると事情が変わってきた。1つは各局でニュースワイドショーが増えてくると、「スタ千」をテレビの皮切りにしたスターもそこに出るようになる。希少価値が薄れてきたのである。
もう1つの事情は、地方局のネット事情である。夜9時台というゴールデンタイムに15分番組を編成するために、残り45分をどうするか。フジは「お茶の間寄席」というお笑い15分ベルトを編成し、残り30分番組とセットで9時台を編成した。当時は東京の民放キー局は4、6、8、10チャンネルの4局あったのに対し、阪神、東海、北九州地区以外の各県の地方局の数は1つか2つで、地方局の立場が強かった。東京キー局の傘下に入って番組を丸ごとネットしなくても、月曜日は東京のA局の番組、火曜日はB局の番組と、欲しい番組だけアラカルトで選択できたのである。ベルト番組の「スタ千」をある曜日だけ取ることはできないので、フジのセット・メニューは蹴飛ばされて、9時台の番組は地方に
届かなかった。しかも、番組がもっとも高く売れる時間は、夜8時台から9時台へと変わりつつあった。また、アメリカの番組編成は既に30分番組が減り、1時間番組が増えつつあった。高度成長期のこれからを考えれば、9時台は1時間番組にしていくべきであり、そうすれば、番組を受けてくれる地方局の数も拡大しやすかった。つまり、テレビの編成的には「スタ千」は障害になりつつあったのである。
しかし視聴率的にはまだ余力があるし、一番困ったことには開局以来の大スポンサーの旭化成がこの番組を気に入っていて、やめる気は毛頭なかったのである。しかも「スタ千」の代理店は営業に大きな影響力を持つ電通だった。それでも当時の編成部は同じ社の営業から背中で撃たれるのを覚悟で、「スタ千」を9時台から7時台へシフトさせる提案を旭
化成と電通にすることにし、その資料の多くを私が書いた。もちろん7時台に移動して、視聴率が上がる保証はない。であっても、たとえ失敗して翌年番組が終わっても、番組表が良くなればいいと編成部は腹をくくっていた。そんなことはフジの営業にはもちろんのこと、電通にも旭化成にも口が裂けても言えない。ひたすら、今の時代は若い人にアッピールしなければいけないとか、晩飯食って晩酌すれば、9時には寝てしまう大人や老人もいるとか、勝手な理屈をつくっただけである。何度か編成部長と一緒に私も説明に行き、その結果、翌昭和44(1969)年の4月から「スタ千」は7時30分から45分まで、45分から8時までは「お茶の間寄席」ということが決まったのは前年の年末だった。年明けて部長に呼ばれた。「来年から1年間でいい。制作に行ってくれんか。制作と言うより『スタ千』の企画デスクをやって欲しいのよ。制作部長には了解を取った」。2月1日付けである。私も事情は分かった。旭化成を前にしてあれだけのプレゼンをしたのだから、編成としても特別体制をとったことを相手に見せる必要があった。「社内留学ですね」と言ったら、部長はニヤリとして言った。「骨は拾うよ」。
留学と言ったのはウソではない。やってみたかった仕事だった。9時台から7時台に移動した結果、出演者の顔触れ、話題、司会者の変更も含めて、作り方を変えなければならない。それにトライした。わずか1年間だったが、この仕事は大変勉強になった。当時の「スタ千」は週に5本放送するのに、専任のディレクターはわずか2人。残りは制作部各班に担当がいて、それぞれ東宝、松竹、大映など縦割りに担当が決まっていた。レコード会社の担当も別々で、先方の宣伝部と話し合って、適当な話題を作ってスケジュールを切ってきた。ナベプロやホリプロなどのタレントについても、懇意なディレクターが情報を持って来たり、出演者と話題をセットしたネタを持ってくる。婚約、結婚、子供の誕生、お宮参りなどは最高のネタである。それらがお互いのプラスになったり、財産になったりする関係だった。企画デスクはそのすべてのディレクターと仲良くして、先方のすべての窓口と付き合うことができた。やってみたかった理由は他でもない。「スタ千」の企画デスクほど、タレントやタレント事務所に顔が広がるポジションはなかったのである。
そして1年後の45(1970)年2月、編成部に復帰した。1年間で司会者も若返り、石坂浩二がメイン司会者に、さらに月に何度か吉永小百合が特別司会を務めてくれた。
1《カラーテレビ時代の到来》
フジテレビに入社以来、編成部で番組の企画を担当した12年間の最後の数年は、漸くカラー時代を迎えていた。カラーの技術は白黒テレビの放送開始時期にはほぼ出来上がっていたし、カラーの本放送も、実は昭和35年9月に始まっていたのだが、受像機があまりにも高すぎて、全国で2千台しか売れなかった。同年に発売された東芝の17インチが42万円、シャープの21インチが50万円という値段は、48年経った今の物価水準でも途方もない金額である。当時の物価水準と言えば、この年の初任給が大卒公務員で1万800円、大卒銀行員で1万5千円だったから、普及には絶望的な値段だった。放送する方にしても、お金のあるNHKですら『お笑い三人組』や『私の秘密』など1日1時間のカラー化がやっとである。つまりカラー放送が始まったころ、まだ日本は白黒テレビ時代の入口だった。その数年前の昭和30年に私は観一(注)を卒業したのだが、そのころやっと日本の家庭電化が始まったのである。「冷蔵庫、洗濯機、モノクロテレビ」が家庭電化の三種の神器と言われたのが昭和30年だった。後の人がこのころモノクロテレビが普及していたんだと思うと、大間違いする。昭和30年に東京の家庭で「憧れの電化製品」だっただけで、観音寺でモノクロテレビを持っていた家庭はおそらくゼロに近かったと思う。モノクロテレビが劇的に普及するのは昭和39(1964)年秋の東京オリンピックの直前である。この年でカラーテレビはまだ5万台しかなかった。カラーがブレークするのは昭和45(1970)年の大阪万博からである。全国の家庭が約4千万世帯と言われ、そのうち約2千万世帯がテレビを持ち、その中でNHKとカラー契約した世帯がモノクロを追い抜いたのが翌46(1971)年。つまり、カラーテレビ時代は70年代の前半に始まったのである。
注:観一=香川県立観音寺第一高等学校